機関紙90号 (2013年7月30日発行)



もくじ

写真「百合」
撮影 荻野国広

90号達成特集「日本国憲法のここが好き」1
  今ならばまだ間にあう
早乙女勝元(作家)
    
90号達成特集「日本国憲法のここが好き」2
  「前文」は世界と歴史への約束
丸山重威(ジャーナリスト、元共同通信編集局次長)

90号達成特集「日本国憲法のここが好き」3
  「会」のいっそうの持続・発展を期待します
鈴木 彰(イラストレーター、調布「憲法ひろば」世話人)

90号達成特集「日本国憲法のここが好き」4
  「昭和」という時代を生きて
坂 敬夫(9条の会 山口)

90号達成特集「日本国憲法のここが好き」5
  「戦争は最大の悪」と教え続けなければ…
   安藤恵美子(中新井在住)

鈴木彰の「民意とのねじれは視野の外にあり」

「原爆、戦争そしてテレビで体験したこと」
  高橋玄洋さんの講演要旨②

太郎の部屋のほっとたいむ ⑫
「12人の怒れる男たち」
鈴木太郎(詩人・演劇ライター 中新井在住)

自、維新、みんな、改憲発議の3分の2に届かず
改憲発議に必要な議席数は阻止したが参院議員の72%が改憲賛成に危うさ

学びのシリーズ第3回 書「真実はどこに?」

短 信
  ●所沢みくに教会 2013平和について考える集い
  ●2013年平和祈念式
  ●2013所沢平和のための戦争展
  ●所沢・うたごえ喫茶 LOVE&PEACE




百 合(写真)

撮影 荻野国広さん(本郷在住)



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90号達成特集「日本国憲法のここが好き」1

今ならばまだ間にあう

早乙女勝元(作家)

 私の両親はすでに故人だが、父は戦後3年目に50代で亡くなっている。貧困家庭だったので、財産らしいものは皆無だが、しかし、平和憲法を残してくれた。

 その憲法に父が直接関与したわけではないけれど、新憲法を誕生させた当時の、国民の一人だったことは間違いない。私はその憲法のおかげで、兄のように兵士にならずにすみ、八十路のこの日まで、生きたいように生き、言いたいことを言い、書きたいものを書いてきた。

 その自由が失われかねない政府の改憲の動きに、深刻な危機感を覚えている。もし憲法が変えられて、国民主権と平和主義が消失し、放射能まみれの社会を次代に残すことになったら…。考えただけででも鳥肌が立つ。

 しかし、今ならまだ間に合う。その今に、父母から受け継いだバトンを、次代ランナーに、しっかりと手渡したいと思う。東京大空襲の生き残りとして、もうひとふんばりと心している。



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90号達成特集「日本国憲法のここが好き」2

「前文」は世界と歴史への約束

丸山重威(ジャーナリスト、元共同通信編集局次長)

 第9条や、25条や21条に比べ、論議が少ないが、憲法前文ほど、人類の民主主義の歴史がしみこみ、世界に大きな視野を持った文章はほかにあまりない、と私は思う。

 「再び戦争の惨禍が起こることがないように」との決意から始まり、「国民主権」を宣言し、第九条の根幹である「平和を愛する諸国民の公正と信義」への信頼を表明する。そして、国際社会が「平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている」ことを確信し、全世界の国民がみんな、「恐怖と欠乏から免れ平和のうちに生存する権利を有する」と述べる。「平和的生存権」は世界の国民みんなにあるのだ。

  改憲派は「一国平和主義」といい「前文は翻訳調だ」とデマ宣伝する。だが、これは全くのウソだ。彼らは、「一国平和主義」どころか「国際主義」が嫌で、漢語に盛られた「憲法精神」「戦後精神」の格調の高さが嫌なのだ。前文は世界と歴史への日本人の約束だ。



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90号達成特集「日本国憲法のここが好き」3

「会」のいっそうの持続・発展を期待します

鈴木 彰(イラストレーター、調布「憲法ひろば」世話人)

 私は、日本国憲法前文の「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」という部分が好きです。

 それは「人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚する」という確かな哲学を踏まえて「九条」を裏づけているからです。この部分を「醜悪」「致命的な日本語の乱れ」「助詞の使い方が間違っている」などと罵る人がいますが、いずれも根拠のない話しです。

 同じ人が「悪しきものはババア」「二−トは穀つぶし」「重度障害者ってのは人格あるのかね」など救いようのない醜悪な暴言を吐いていることが示すように、それは人権否定の立場に由来する悪罵に過ぎません。

努力が築いた90号発行

 私が「九条守って世界に平和」を知ったのは、初めて一コマ漫画を描かせていただいた2005年9月のこと。充実した紙面にいつも感嘆しながら、これに引けを取らない?作品を描こうと励んできました。

 実は私が発行に関わる調布「憲法ひろば」のにゅーすはこの7月に100号を数えるのですが、A4版2貢建ての紙面で、みなさんのB4版4貢建てにはボリュームと多様性でとうてい適いません。「マスコミ・文化九条の会所沢」の会員のみなさんの広く深い底力と、編集者・執筆者の並々ならぬご苦労・ご努力が築きあげた90号発行の到達点に心からお祝いを申し上げます。

 また、みなさんが「九条の会」運動の発展にもたらした計り知れない貢献に感謝し、いっそうの持続・発展を期待します。



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90号達成特集「日本国憲法のここが好き」4

「昭和」という時代を生きて

坂 敬夫(9条の会 山口・荒幡在住)

TV界から離れたわけ

 私は1934年(昭和9)10月に出生。当時の我国は、1931年満州事変を起こし、関東軍は北進し、傀儡政権「満州国」を建国。欧米列強に負けじと植民地政策を推進した。「満蒙は我国の生命線」の掛け声の下、本国から入植させた。国際連盟の席上、欧米より日本の植民地政策を批難され、1933年(昭和8)に脱退宣言をした。1937(昭和12)に中国盧溝橋で日中両軍が衝突したのを機に、日中戦争が始まり華北へ派兵する。

 国内では、1936年(昭和11)政局の不安や労働運動の活性化、学者知識人の発言等に対し、陸軍青年将校が決起、政府要人を殺害する2・26事件が起こった(1935年)。1939年(昭和14)頃より戦時体制が強化され、1938年(昭和13)国家総動員法が、翌年、国民徴用令が公布された。

 また、文部省による私立学校や宗教団体への管理が始まった。1940年(昭和15)には、我が国は石油確保のために仏印(現マレーシア)に進駐を始めた。1941年(昭和16)日米交渉が不調に終わると近衛内閣が総辞職し、天皇の命を受けた東條陸相が自らが総理大臣となり組閣した。名実ともに軍閥内閣が誕生、我が国は立憲民主制からファシズムの時代を迎え、同年12月に太平洋戦争に突入した。

軍国学童の体験

 私は前述の時代背景のもと、1934年(昭和9)東京渋谷で生まれた。家から10分程歩くと陸軍練兵場(現代々木公園)があり、大通りの向こう側には、高いレンガ壁の続く陸軍衛戌監獄があった。毎年3月10日の陸軍記念日には、早朝から軍用機が編隊で飛来し、膨大な練兵場では、大元帥・昭和天皇が白馬に騎乗して、戦車隊や将兵の分列行進を閲兵していた。

 1941年(昭和16)4月に改称された国民学校に入学。登校時には、学校正面を入ると右側に小さな社(奉安殿 天皇皇后の写真と勅語が納めてある)に向かって一礼し各教室に入る。朝礼では「君が代」の曲に合わせ「日の丸」が掲揚され、下校時には「海ゆかば水く屍 山ゆかば草むす屍…」の曲で日の丸と校旗が降ろされた。また毎月8日には全校生徒が近くの明治神宮に必勝祈願の参拝を行った。

 1944年(昭和19)政府は学童の集団疎開を発したが、私は微弱な身体で千葉県野田の知人の家に縁故疎開に行く。転校した始めは「疎開子」と言われて毎日のようにいじめに合った。転校当初は町役場の広場で出征兵士の壮行会に学童として参加。

 翌年1945年になると、「無言の遺骨」になって帰国する戦死者を迎えに駅頭に参列し追悼の意を献げた。1945年3月の東京大空襲では、東京の空が夕焼けのように染まり、渋谷の家のことが思い出された。4月に入ると父から千葉も危なくなったので、京都の知っている寺に行くようにとの知らせがあり、身の回りの物だけを持って嵯峨小学校に転校した。8月15日に敗戦となり、9月には久しぶりに父と兄弟5人が芦屋の家で顔を合わせ、一家の無事を感謝した。

 私は千葉に縁故疎開してから1947年3月に東京に帰京する3年間で3度転校を繰り返し、国民学校の時は殆ど基礎学習は受けられず、夏休みは軍馬の乾草造りや竹薮の開墾、兵役で男が居ないので新聞配達などで過ごした。戦後は空襲で焼失した木造校舎の後片付けに追われる6年間だった。

 学童期の体験と、幼い日からキリスト教の教会に兄弟達と通い、聖書を通してイエスに出会ったことで、新しい時代に入り何を目標にすべきかを問い、大学時代は上野公園脇のセツルメントに通い、多くのことを教えられた。

 日本は前大戦の時、アジア太平洋地域の2000万人の尊い命を奪い、辛苦の苦痛を強いた。本土では沖縄地上戦、広島、長崎の原爆、そして大都市への無差別空襲で300万人を超える命が奪われた。同時代を生きた者として贖罪の生活を続けようと願い、30年間、社会福祉施設の現場で働かせて頂いた。

 数年前から、「9条の会所沢やまぐち」の会員に加えてもらいました。また、キリスト教平和ネット等の活動にも参加し、「反戦、反基地、部落解放を考える会」にも参加。

 イエスの言葉に、「平和を実現する人々は幸いである」といわれた聖句を座右の銘として活動していく。




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90号達成特集「日本国憲法のここが好き」5

「戦争は最大の悪」と教え続けなければ…

安藤恵美子(中新井在住)

 憲法前文「政府は、国民みなが信じて託した一人一人の大事な気持によって運営される。政府がいろいろなことをできるのは国民が、政府を支えるからである。政府の権力は私たちの代表を通じて行使されるし、その結果得られる幸福はみなが受け取る。これは政治というものについての世界の人々の基本的な考えであり、私達の憲法もこの考えを土台にして作られている。」池澤夏樹『憲法なんてしらないよ』から

憲法をちゃんと読んだことはなかった

 正直、憲法をちゃんと読んだことはなかった。しかしこの文章を読むと選挙に対してどこか緊張感がなく投票していたし、その結果生まれる政府に対しても我々の選んだ結果という感覚にはとても遠いものしか感じられていなかった自分を発見する。この本をきっかけとしてぜひとも終わりまでじっくり読んでみようと思った。

 私は1946年の生まれで戦争の実態は知らない。けれど2年前に104歳で亡くなった母が繰り返しはなしてくれた一つのエピソードがある。「あーあ戦争なんて早く終わればいいのに」と父に言ったとき、父は血相を変えて「そんなことをだれかに聞かれてみろ!大変なことになるぞ」と言われたという。だから戦争が終わった時には心底嬉しかった、そうだ。

 こういう息苦しさが今暮らしの中にあったらどんなに大変だろうか。80になった私の兄も買い物に行くと山のようにカートに積み上げる買い方をする。なにしろ物がなかったという時代を通らざるを得なかった世代を笑うわけにはいかない。我慢をするしかなかったつらさは察して余りある。

 私にとっての戦争とはこういったことがらからの印象である。60年以上国内に戦争は起きていない。だから九条のすばらしさはとても感じる。

 私は、世田谷区の区立中学校に通っていた。校庭のとなりに古い建物があってそこに何世帯かの人々が暮らしていた。洗濯物を干したり、外でご飯を炊いていたり、何となく疲れをにじませた雰囲気を感じていた。

 ある日その人々が満州からの引揚者だと知った。何故満州に日本人が?という疑問がその日から頭を離れず駅の本屋に行ってみた。隅に毎日新聞社発行の引き揚げの記録写真集を見つけおこずかいをはたいて買った。衝撃的な写真の数々。家にあったアサヒグラフの原爆特集以来のショックだった。こういうことがあったのか。しかしその時は満州に人々が渡ったその本当の事までは掴むことができなかった。

 今、学校では近現代史が非常に軽く扱われていると聞く。私の場合もおそらくは授業で習ってはいたと思う。しかしなーんにも残っていない。私でさえこの状態がとてもやわで危険なものと感じざるを得ない。戦争は人類最大の悪と子供たちに教え続けなければいけないとつくづく思う。




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鈴木彰の「民意とのねじれは視野の外にあり」




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「原爆、戦争そしてテレビで体験したこと」

高橋玄洋さんの講演要旨②

消えてしまった広島の街

 広島で原爆に遭遇しました。被爆者ではありません。入市被曝と呼ばれています。海軍兵学校に20年の3月に入り、いま、長崎のハウステンボスのある羽生から、ここも危ないと言われ、山口県の防府に移動しました。8月の7日でしたか、病院に出頭せよとの命令が来て、病院の裏へ回れと言われ、そこにトラックが待っており、乗ると「いまから、貴様達は広島に行く」。荷台を見渡せば、みんな広島の出身者でした。どういうことかというと、広島が空襲されたことは分かっていました。

 海軍には特別上陸というものがあります。一親等、お母さん、お父さんの危篤、葬儀の場合に外出が許されました。二親等 、おじいさん、おばあさん、兄妹の葬儀の時にも許されました。上官は「お前達は特別上陸で広島に行く」と言われましたが、広島がそんなに大変なのかと疑っていました。途中から船で江波に上陸しました。夜明け前でした。江波の隣の牛島に刑務所があり、その塀に沿って早く親の安否を知りたく、早足にあるいて、その塀が切れたとき、その向こうにあるべき広島の街が、まったく無くなっていました。砂漠みたいなものです。ところどころ残っているのは、2階建て、3階建ての建物です。人っ子一人いません。死の街です。「シーン」とした感じてした。

 市の中心に向けて歩き出しました。最初の橋のたもとに初めて人の姿を見ました。ご一家でしょうか、若い奥さんでしょうか、背中に赤ん坊が寝ていて、横に男の子がいて、疲れはてて、橋まで逃げてきたのでしょうか、その横を通り抜けようとして見ると、全員死んでいるのです。赤ちゃんのカタンと折れた顔がいまだに脳裏に焼き付いています。

 大手町、弥生町と探したのですが、地下室も死体で一杯でした。その夜は野宿です。

己のエゴイズムを知る

 いまだに不思議でならないのは、あれだけの原爆が炸裂したのにかかわらず、橋が一つも落ちてはいません。7つも河があって10いくつの橋が残っていました。橋の上だけがきれいでした。

 人間というものはかくも酷たらしく死ぬものだ、ということを16歳で知りました。もう一つ恐かったことは、それでも炭の遺体を選んでしまうのです。腐ったウジ虫の沸いたなんとも臭いの強い、遺体はまたいでしまうのです。自分はそんなことをする人間だと思ってもいません。おもってもいないのにそうなってしまう。私は初めて自分のエゴイズムを知りました。

 その3日間の体験がそのまま、私の罰となり、一年半二次被曝という、原爆症に悩まされます。

73日ごとにたらい回しに

 食欲はない、何もやる気がしない、恐かったのは死ぬことです。まわりがバタバタと死んでいくのです。兵学校から復員になるのですが、私の両親は平壌におり、帰る所が無いのです。広島で親族会議がひらかれ、私は5軒の親族で面倒を見ることになりました。73日ごとに親族のたらい回しになります。74日目に次ぎの親戚に行くのです。それが私の親戚不信となり、未だにわだかまりになっています。

私はご馳走を食べません

 一番辛かったのは、従姉妹のお嫁さんが、私と一緒の風呂に入るのを拒み、入るなら離縁して帰ると言ったことです。その家にいる73日間は行水しか許されませんでした。毎日、死ぬことだけを考えていました。原爆症はいつ死ぬか分からないのです。顔が土色になると一週間後に死んでいきます。人間はどん欲で俺が死んでも髪が伸びるかも、俺が死んでも爪が1センチでも伸びるかも、人間の生の執着はそこまでいくのです。両親が帰ってくるまではなんとか生きたい。一緒に飯を食えたら死んでもいいと真剣になって考えました。生きていることに罪悪感を感じます。

 私はご馳走を食べません。食べると罪悪感に襲われるからです。私のまわりには、それだけの若さでなんの罪のない人間が無念の思いで死んでいきました。それが戦争です。(終わり)


真摯で深く崇高さを感じた先生の話し

竹田裕子(並木在住)

 6月9日に行われた総会での高橋玄洋先生の講演には胸をうたれました。けっして長いドラマチックなお話ではないのに、戦争のむごたらしさやご自身の苦悩ががこちらにひしひしと伝わってきて、涙がにじんできました。

 「私はちょうど沖縄のひめゆり部隊と同じ年です…。私はご馳走をたべないのです」という結びの言葉の中に、広島や沖縄で亡くなった人々にたいする先生の思い、戦争を憎む思いの深さを知ることができました。

 わたしも、自分の人生が死者たちの上に築かれたものであり、その人たちの恩に返すすべむないことに気ずいていらい“死者とともに生きる”生き方をすることにしたのですが、先生の生き方はもっと真摯で深く、もっと普遍的でそのなかに崇高さが感じられました。




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太郎の部屋のほっとたいむ ⑫

「12人の怒れる男たち」

鈴木太郎(詩人・演劇ライター 中新井在住)

 夏休みの期間は親子で舞台に親しむ良い機会でもある。いくつかの劇場を中心にしたイベントなども組まれているので、情報をよく見て計画を立てるのも楽しみなことである。

 たとえば、東京・品川区にある六行会ホールでは、六行会チルドレンズフェスティバル実行委員会による「チルフェス2013 in 品川」(7月7日〜28日)が開催されている。劇団の公演など10の企画が揃っている。

 東京芸術座の「12人の怒れる男たち」(14日)もそのひとつであった。この舞台はアメリカの陪審員制度を描いた話題作である。レジナルド・ローズ=作、額田やえ子=翻訳、稲垣純=演出、北原章彦=演出補によるもの。この作品は全国学校公演を中心にまもなく2000回公演という財産演目となっている。最近では、日本にも裁判員制度の導入によって関心がいっそう高まった感がある。

 アメリカの貧民街で起きたある殺人事件。17歳の少年が父親をナイフで刺し殺したのである。そして、第−級殺人罪で死刑に問われた。無作為に選ばれた12人の陪審員たちはどのような判定をくだすのか。陪審員室での討論が開始された。誰しもが死刑と思っていたなかで、ひとりの男が「せめて1時間話し合いを」と無罪に投票する。物語は事件の証拠を再度確認していく。波乱に充ちた展開は、客席の小・中学生にも興奮をよぴさましていく。1時間45分があっという間に過ぎていく。俳優たちの個性豊かな演技とあいまって、人間の理性の素晴らしさを実感できる舞台でもあった。




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自、維新、みんな、改憲発議の3分の2に届かず

改憲発議に必要な議席数は阻止したが参院議員の72%が改憲賛成に危うさ

 第23回参議院選は21日、公約で憲法改正を掲げるなど改憲に前向きな、自民党、日本維新の会、みんなの党の獲得議席は、非改選と合わせて改憲発議に必要な3分の2には達しなかった。改憲阻止を掲げる糸数慶子議員(沖縄選挙区)の再選や東京選挙区の新人、山本太郎氏の当選や日本共産党の躍進で新しい政治状況が生まれた。

 しかし、環境権など新たな理念を書き加える「加憲」を掲げる公明党を加えると到達する可能性は残っている。

 憲法96条は、改憲発議には参院で総議員(242人)3分の2となる162議席が必要と規定する。自民、維新、みんなの3党と今回候補者を擁立しなかった新党改革を合わせた改憲勢力4党の非改選議員は合計62人(会派離脱中の副議長を含む)。このため3党で計100議席を新たに獲得する必要があるが、届かなかった。

 ただ、公明党を改憲勢力に加えるとハードルは計91議席と低くなる。

民主、公明の22人が賛成

 政党別では改憲発議に必要な議員数に不足があるが、共同通信(グラフ参照)が22日、実施した参院選当選者と非改選議員計196人の個別のアンケートでは「加憲」を掲げる公明党を含め72・4%に当たる142人が憲法は「変えるべきだ」と回答し、「変えるべきでない」18・9%を圧倒した。

 ただ、改憲要件を緩和するための憲法96条改正には賛否が拮抗した。「憲法を変えるべきだ」と回答した内訳は、自民93人、民主11人、公明11人、みんな17人、維新8人、無所属2人に対して「変えるべきでない」と答えた議員は民主19人、公明3人、共産10人、社民3人、諸派・無所属2人。その他・無回答が8・7%となった。

 アンケートでは民主党の11人、公明党の11人が「変えるべきだ」と回答した。この計22人を加えると計算上、改憲発議に必要な参院3分の2の162議席に達することになる。ここに危うさがある。

法案は与党だけで成立

 選挙で自民党は圧勝し、衆参両院で与党が過半数を占めて、改憲発議の環境は整わなかったが、法案は与党だけで成立できるようになった。

 これによって集団的自衛権の行使に向けた政府解釈の変更もしやすくなったと言われる。

 新聞報道では、22日の記者会見で、安倍首相は早速、現在は禁じられている集団的自衛権の行使に言及し、「日本国民を守るために何が必要かという観点から、有識者懇談会での議論を進める」と述べて、政府の憲法解釈を変更し、容認する意欲を示した。

 選挙で自民党の圧勝は事実だが、安倍内閣にフリーハンドを国民が与えたわけではない。憲法の危機が続き、国民生活も一層悪くなることは必至だ、アベノミクスの弊害もいずれ噴出するだろう。自民圧勝で消費増税、TPP参加で国民生活は塗炭の苦しみとなるのか。

 平和憲法の「崖っぷち」が続くが、子どもや孫たちのために「憲法を守り抜く」ーそれが私たち、「昭和」を生きてきたものの責任であると、選挙を通して痛感した。(葛西)




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学びのシリーズ第3回 「真実はどこに?」

今なお危険な所沢

 7月20日(土)、学びのシリーズ第3回「真実はどこに?」が新所沢コミュニティセンターの大会議室で行われました。解説とお話は当会会員の沼尾孝平さんで、参加者は9名。

 2001年のキエフで開催されたチェルノブイリ原発事故の放射能汚染を巡る国際会議のDVDで、IAEAとWHO、医師や学者たち発言者の緊迫したやりとりに、学者たちによって覆い隠される「真実」を垣間見ることが出来ました。

 映像を見た後、福島や所沢の話となり、参加された品川さんたちが記録した福島の原発事故当時の市内の放射線量地図を参考に、いかに危険だったか、いかに対策がなかったかなどが話し合われました。除染として剥ぎ取った表土はドラム缶に入れて市内のどこかで管理しているそうです。

 沼尾さんは毎月、ボランティアで二本松の学校を訪れていますが、二本松はいわゆる「避難先」ですので「安全」と思っている人たちがいること、それでも線量は決して低くはないこと、事故後すぐに松本の菅野谷市長が福島の人は即北海道に疎開すべきだと発言したこと、「帰村」は不可能ではないか、などと話しました。

 東京都東大和市、千葉県松戸市、柏市、といった所沢を挟む西と東の地域で放射線量が高く、風の向きや雨の降り方次第で所沢は常に危険地帯であることも知りました。食物から摂取する内部被ばくの危険をオープンにしないこと、値を低く見せようとしていることは、キエフの国際会議での姿と同じですが、数年たてば結果は出るだろうと悲しい現実も話し合いました。

 参加者からは、日本でも30キロ圏内は国有地として安全対策をするべき、日本はもとより災害の国なので「補償」はしないだろう、簡単に言えば政府は福島を見捨てた、所沢市の健康診断に放射能汚染に対するスクリーニングを入れるべき、特に成長ホルモンにたまるため子どもへの影響が大きいのでこわい、老人にもいわゆるチェルノブイリ・エイズといわれる原爆ぶらぶら病の発症が増えている、被爆の治療をする医師は足りるのだろうか、などという声がありました。

 今回を持って、3月、5月、7月と続けてきた学びのグループによる企画は終了しました。(原)




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短 信

●所沢みくに教会 2013平和について考える集い

 間もなく敗戦から68年目を迎えます。日本の国が犯した戦争の過ちと、広島・長崎の原爆と沖縄戦および日本の各地で経験した戦争の悲惨さを、私たちは決して忘れてはなりません。また、経済優先の政策のもとで、福島の惨事にもかかわらず、原発を再稼働させ、放射能によってすべての「いのち」を死の危険に晒しつつあります。
 共にこの国と世界の平和のために祈り、労したいものです。
8月 4日(日)13・00〜13・40 DVD「戦争をしない国・日本」(38分)鑑賞
8月11日(日)13・00〜14・30、田坂興亜氏講演会「いのちと平和が脅かされる時代をどう生きるか?」
(講師プロフィール)1964年東京工業大学博士課程修了後、ニューヨーク州立大学に留学、1968年有機リン化合物の研究でPh、Dを授与。教団牛込払方町長老。
場所はいずれも「所沢みくに教会」(所沢市西住吉11-17 TEL 04-2929−0682)会費は無料です。

●平和祈念式典

 8月6日(火)
 所沢市役所玄関前被曝石前午前8時から

●2013平和のための所沢戦争展

日 時:8月8日から10日まで午前9時から最終日は15:00まで
会 場:市役所庁舎1階市民ギャラリー

●所沢・うたごえ喫茶 LOVE&PEACE

日 時:8月5日(月)
場 所:所沢パークホテル
会 費:1500円(飲み物、貸し出し歌集付き)
連絡先:04−2993−6861 大関




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