機関紙58号 (2010年9月8日発行)



もくじ

「死と向かい合って」六十五年日の夏
   忘れまじ、原爆投下の日
    作家 高橋玄洋さん(81歳) 被爆体験、戦争を縦横に語る
幾星霜 会員・読者に聞きました
   A 65年前の8月15日、どこで何をしていましたか。
   B 今年の「終戦(敗戦)記念日を迎えての感想を書いて下さい。
田母神氏の論点を整理、全面的に実証反論
   「これだけは知っておきたい 近代日本の戦争 台湾出兵から太平洋戦争まで」
    著者 梅田正己氏にインタビュー
鈴木彰の「核廃絶の機運に水差す菅発言」
九条を生かす
   ●被爆国の指導者がそんなことしか言えないのか、菅首相の発言に失望
   ●絶対に容認できない非核三原則の見直しの動き
    鴨川孝司(編集長)
短信
   「所沢平和のための戦争展」を終える




「死と向かい合って」六十五年日の夏 忘れまじ、原爆投下の日

作家 高橋玄洋さん(81歳) 被爆体験、戦争を縦横に語る

 「指名手配」、「判決」、「野々村病院物語」、「三男三女婿一匹」など、心に残る多くのTVドラマを作って来られた、高橋玄洋さんに、少なくなった被爆体験者の一人として、65年目の夏を語ってもらいました。
(聞き手 葛西、鴨川)

Q 8月6日、広島で被爆された方は特別な思いのある月です。先生は、「九条の会やまぐち」の集会で、この日は「沈静の日」だと語っておられます。記録を残す意味でも、被爆されたことなど後世に残す証言をしていただきたいと思います。

高橋
 この前にお話ししなかったらごめんなさい。江田島は爆心地から15キロ離れています。15キロ離れていて、窓ガラスが全部割れたんです。衝撃波です。

 あすこは北側は古高山という山があって、広島は見えません。小さい振動や、割れたガラスが飛んでいくというのではなくて、割れて窓の下にガサッと落ちるという感じてした。

Q それが原爆だということはすぐ判ったのですか

 いや、かなりたってから、特殊爆弾といってました。何が特殊か判らないですし、科学者の方は判っていたのかもしれません。

Q それから先生は広島市内に、支援に行き、そこで被爆されるのですね

 8日から10日まで、行ってました。2次、入市被爆というんですね。いまだ政府が認めないやつなんです。

Q 広島には江田島の生徒は全員行ったのですか

 ほんの少しです。僕は江田島から行ったのではないんです。防府という通信学校に疎開させられていたからです。当時、病院は一杯。トラックに積まれて、よその病院に連れて行かれるのだと思っていましたら、広島関係者だけピックアップしたのです。家族の様子も見てこいということでしょうか。

 出発して、電信柱が倒れていたり、道も歩けない。しかも匂いがすごい。腐りかけの豚を焼いた匂いといっているのをあとから知ったのですが、本当にそんな匂いだったですね。

 明治橋を渡っていく。広島には橋がたくさんあるのですが、一本も落ちてない。何か力が外に逃げるということかもしれません。平和公園近くの相生橋も落ちていません。

橋のたもとにうずくまる親子の死体、顔見合わせ「死んでいる」

 朝早くだった、橋のたもとにおじいちゃんとお母さんと子供が二人。うずくまっていました。それがみんな死んでいるんです。赤ちゃんの首が後ろに直角に曲がって、それをお母さんがだっこしている。それが呼吸もしてない硬直状態になっているんです。顔見合わせて「あっ、死んでいる」って。なぜか、橋の上だけがきれいなんです。

 「自宅を探して行ってこい。だけど時間までには絶対帰ってこい。もし帰らないと脱走にされる場合がある」といわれて出かけて、家族に会えた人は一人か二人、弟の遺骨を荼毘に付して帰ってきた人もいます。

 7日8日は、広島市の人口はゼロになったんです。生きてる人間は伝(つて)を求めて、郊外に行きました。あとでわかったっことですが多くの人が地下室にいたのです。

 動ける状態でないものですから、表には出られません。兵隊さんが救援に当たっていたのですけれど、何を救援していいのかさえ、混乱があまりひどいものですから判らない状況でした。

 しかも我々の救援も海軍から正式ルートで行っているのか、内緒できているのか判らない。秘密にしろ秘密にしろというものですから。あとで調べてみても死体捜索に向かったと言うことは記録にも残ってもいません。自宅を見てこいと言う温情であったか、それも分からないでいます。

最後のパラシュートが原爆だったが見た人は死んだ

Q 広島の天守閣が浮き上がったそうですね。そして、パラシュートで落としてこれを見た人は全員目が見えなくなったといわれてますが。

 1キロ以内の人は目が見えなくなりました。なんでパラシュートが見えたのかと言いますと、その前に4つパラシュートを流しているのですね。風向きとか風力とかを試していたのです。目が見えなくなったということ言わないですね。500mぐらいの人たちは100%死んでますから。だから、500mの所には証言者・語り部がいないのですよ。

 唯一残っていたのは、西練兵場。そこには燃える物が有りません。自転車の鉄と兵隊さんの肉体が一緒に炭化し、そのままばたんと倒れ、それが残りました。家と一諸だと、その後燃えてますから、何も残っていません。

実験だった広島、長崎への投下

 あの日、B29は長崎と広島と小倉と3機飛んでいるんです。そして、天候を調べたら晴れているのは広島しかない。それで3機の一時間遅れでエノラ・ゲイが飛ぶのです。

 これは大事なことですが、7月の16日にニューメキシコの実験場で成功するんです。それで、24日の日にとりまとめて、ポツダムにいるトルーマンに電報を打っているんです。有視界攻撃が可能な範囲において、速やかに長崎と広島と小倉と新潟の4都市のひとつを攻撃させてくれと。
 京都が入っていたが、京都は歴史的古都だからと反対があったといいます。

 これらの都市はみんな同じ地形なんです。三方が山で一方が海、それはあとで効果を見るために、有視界にこだわっているのです。人間を対象にした効果を検証しなければいけないわけですから、どれだけの人間を殺傷できるかの実験なんです。

 それと、原爆を落としたために終戦が早くなったという意見が米国にありますが、絶対にそんなことはありません。25日、「それでよろしい、やれ」と指令が、ポツダムから発しているのです。そして、翌26日にポツダム宣言を出しているのですから。

 戦争を日本がなかなかやめないから、ポツダム宣言を受け入れないからと言いますが、投下命令は一日早いのです。8月7日になったら、ソ連が参戦する。その前にやらないと実験できなくなるわけです。東西冷戦に入って、アメリカが主導権をとって、日本への支配をいかに強化していくかという判断です。

Q 先生はそのあと、広島から尾道に戻って、発病や苦労されるわけですね。

 原爆が落ちたとき、爆風、衝撃波、熱線、放射能で、爆弾から直接に熱線と一緒に来たのが放射能、移動放射能、例えば煉瓦とか地面にしみこむ、それがじわじわ出てくる。もう一つは放射能を持った塵、これもじわじわ落ちてくる。雨として落ちてきたのが黒い雨。それが困るのは呼吸で入ってくる。水で入ってくる。造血機能を落として、白血球が6000とか7000とかが1000、2000に落ちていく、抵抗力がなくなってくる。直接被爆した人もそうですし、未だに判ってないことたくさんあるのです。

戦争を知らない若い世代に一言を

 僕達の反省として、役割からいえば語り部なんですが、語り部だけでは駄目で、花火と一緒でほんの一部です。話せるのは。かわいそうというのは伝わるのですが、全体の怖さは伝わってないような気がするのです。それも必要なのですが、どれだけの人間が亡くなったのか、全体像を話す。一つ一つの命がかけがえのないもので、それを数で話す、だがここには難しいものがあるのです。両方をつかむことが大切です。聞くだけでは駄目です。

 勉強してくると判ってくることあるんです。そして、生きることに強くならないといけないと思っています。

高橋玄洋さん プロフィール

 1928年に松江に生まれ、海軍兵学校時代に広島の原爆で入市被爆した。早稲田大学を卒業。58年にNE丁(現テレビ朝日)に入社。61年にフリーとなり、演出の傍ら脚本家としても活躍されてきた。代表作に「いのちある日を」。テレビ小説「繭子ひとり」の57%の視聴率は今でも破られていない。所沢を舞台にした長編小説「人口樹木」は、高層マンションの建つ、有楽町界隈を舞台に明治末から昭和にかけて、軍都所沢の賑わいと衰退を取り上げて大きな話題となった。52歳でテレビの現場を離れ、陶芸作家、書家、画家としても活躍。本紙題字を創作、揮毫された。埼玉県文化ともしび賞選考委員長、中礼内美術村館長、中川一政美術館の副運営委員を務めている。(山口・大六天在住)



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幾星霜 会員・読者に聞きました

Q A 65年前の8月15日、どこで何をしていましたか。
  B 今年の「終戦(敗戦)記念日を迎えての感想を書いて下さい。


A 現墨田区(向島区)寺島町の半焼けの家にいました。13歳でした。これからどうなるのか、どうしたらいいのかわかりませんでした。生きていたんだという実感だけは強烈でした。一億玉砕を信じていましたので…。

B 8月14日に空襲被害者救済法を求める全国初の組織が結成され、私は共同代表に選ばれました。司法と立法の両輪で連動を展開していきますが、おそらく人生の最後の仕事です。未来世代に戦争(空襲)のない社会を、と思えばこそです。
早乙女勝元(作家・足立区在住)


A 多分、もう材料のなくなって仕事のできなくなった勤労動員先の工場に居て、玉音放送を聞いたと思います。女工さんのブラウスの胸のふくらみが気になり始めた15歳でした。

B 広島、長崎をはじめとしての「戦争の風化」を恐れます。ここ、数日、時間の隙間にTVで戦争の傷跡や、その悲惨な現実にいくつか触れたが、その裏で「お笑い番組」や「バラエティ番組」が放映されているのにいらだち、急に独裁者になって、この期間「戦争体験」以外のTVは映すなど、独り言を言いました。
 原爆忌を切り裂いて飛ぶ軍用機
中原道夫(詩人・上新井在住)


A そのころ、北海道の生田原村の鉄道官舎に住んでいて、官舎の子どもたちと遊んでいた。戦争ごっこだったかも知れない。国民学校二年生だった。

B 15歳上の兄が昭和18年9月1日に南方のタワラ島で戦死し、9歳上の兄は予科練で特攻隊に選ばれたという。終戦後、すごくおっかない顔をして帰ってきた。九条を何としても守りたい。
藤原秀法(彫刻家・山口在住)


A 中国東北部(旧満州)遼寧省遼陽県。父が現地の国策軍需工場に動めていました。私は8歳。夏休みで私は近所の小川で魚釣りをしていました。それから帰国までの一年間は地獄でした。

B 十五年戦争を遂行したのは軍部でしたが、それを支えたのは父のような下積みの労働者でした。1930年頃から労働組合が弾圧され、産業報国会になってしまったことが戦争を止められなかった要因です。現在の日本も労働組合の存在が見えにくくなっています。心配です。
戸塚章介(新聞OB「九条の会」事務局長、松戸市在住)


A 1945年8月15日私は栃木県芳賀郡清原村(現宇都宮市清原町)所在、宇都宮陸軍廠通信班勤務。

B あの日から既に65年、「光陰矢の如し」という古語を噛み締めている此の頃です。戦後間も無く新憲法が制定され、日本も此れで民主国家として再生できると思い、感激しましたが、其れも大陸情勢の急変で占領政策が何時の間にか逆転して、且って侵略戦争を推進した連中が時を得顔に復活して、今では折角の平和憲法の改悪を公然と要求する事態に至りました。然し、戦前とは異なり反動改憲勢力の暴走を許さぬ『九条の会』を先頭にする民主勢力の断固とした闘いが、改憲勢力の意図を阻止しているのは力強い限りです。

 私は老齢の上、心臓が悪く更に老人性膝関節症を患って、歩行が不自由です。其の為、会員の皆さんと一緒に行動する事が出来ないのが残念でなりません。然し私も非力ではありますが、縁の下の力持ちとして、陰ながら九条の会の運動を支えて行きたいものと念願して居ります。これが私の終戦記念日に於けるささやかな感想です。
長田創一郎(こぶし町在住)


A 企業に入社した年で、まだ右も左も分からず、夢中で働いていました。

B 空襲で家は何回も焼かれ、食料も乏しく、家族バラバラの生活でした。戦争は二度とあってはならないと思います。
田中 博(椿峰在住)


A 千葉県九十九里浜の小学三年生(八歳)、小川で魚とり遊びをしていたら、大人たちが「重大な放送がある」というので、隣家のラジオを聴きに行った。みんな「戦争に負けた」と泣いていたが、私にはまだピンとこなかった。それより小学校が空襲で焼けたので、「学校へ行かなくても良い」と喜んでいた。それも束の間、新学期はお寺での勉強だった。

B 終戦から六五年も経ったのに、平和憲法が実現できていない現状を腹立たしく思う。でも悲観はしていない。核兵器廃絶へ向けて世界が動き始めた。「核の傘の抑止力」を否定する声も。同時に沖縄米軍基地撤去の戦いが、辺野古新基地建設反対を契機に盛り上がってきた。沖縄に応援に行きたい思いに駆られながら、改めて反戦平和の決意を新たにしている。
行木恒雄(椿峰在庄)


A 家族の疎開先に連絡に行く切符を買いに上野駅へ行った帰り、正午ごろ代々木で旅客全員降ろされ、玉音放送を聴かされた。天皇の放送と言われたが、何を言っているのか判らず“頑張れ”と言われたのだろうと勝手に思っていた。5月の空襲でやられた後の仮住まいに帰ると、姉が泣いて敗戦を知った。口惜しかったが、もう空襲はないという安心感が広がった。

B 終戦後65年も経つのに米軍基地が、我が家すぐ脇にもあるが腹が立つ。今こそ憲法九条を眞に実現するために努力しなければならない。死ぬまで頑張る。
飯沼勝男(並木在住)


A 大阪豊中市で終戦をむかえています。5歳でした。昭和20年3月13日に大阪大空襲があり、その後、豊中にも空襲がありました。毎日、暗い雲におおわれていて、焼夷弾の恐ろしさにふるえていました。そんな思いの日々のあとにむかえた8月15日はとても天気のいい日で青い空が広がっていました。

B 戦後から65年、安保闘争から50年。思えば歳月の長さと短さを実感しています。今年の8月15日は戦争・原爆を考える二つの舞台を見ることができました。劇団東演の「月光の夏」と板橋演劇センターの「父と暮せば」でした。平和であることの命の重さを考えています。
鈴木太郎(詩人・中新井在住)


A 九州・国東半島の大分県西国東群高田町(現在の豊後高田市)。大分県立高田中学校校庭。夏休み中とはいえ登校中。正午「玉音放送」があるからと、炎天下の校庭に整列させられ、(昭和)天皇の「玉音」を聞かされた。性能の悪いスピーカー、加えて独特の「節回し」の天皇の声はよくは聞き取れなかった。

B 所沢革新懇「恒例」の駅前リレートークに参加した。敗戦後65年。この間の平和を求める世界の人たちの声は、ますます大きくなっていることを実感している。広島・長崎での原水爆禁止世界大会での国連事務総長やアメリカをはじめとする核兵器保有国の政府代表の参加など、核兵器廃絶の動きに注目している。米軍所沢通信基地の全面返還連動の再構築を!
安東彰義(こぶし町在住)


A 群馬と長野の県境の山、浅間山の麓から流れる碓氷川で川遊びをして、昼近くに家に帰ると「玉音放送」の始まる直前でした。意味不明のまま聞きましたが、「戦争に負けたのだ」とあとから父母に聞きました。国民小学校五年生の夏でした。

B 広島の平和記念式典などから「核も戦争もない世界」へ国際的にも一歩進んだかと思う今年の八月十五日です。終戦から65年を経て、すこしずつでも歴史と人間の理性は「真理」に向いつつあるのかと感じています。
春原利夫(山口在住)


A 前夜から15日未明にわたるB29の爆撃を受け高崎駅附近が焼失。15日朝いつも通りに工場(中学三年生、学徒勤労)に行きましたが、何故か?今日は帰って良いということで家に掃りました。午後−時頃、町から帰って来た人が「オーイ戦争に負けた」と言いながら通り過ぎました。これで敗戦を知りました。

B この国は、過去の清算をしないうちに65年が去ってしまった!この好い加減さが再び過ちを犯さないよう念ずるのみ。
藤巻忠雄(中新井在住)



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田母神氏の論点を整理、全面的に実証反論

「これだけは知っておきたい 近代日本の戦争 台湾出兵から太平洋戦争まで」

著者 梅田正己氏にインタビュー

 台湾出兵から太平洋戦争までの68年間で、日本は10年に満たない間隔で10を超す戦争を引き起こしてきた。戦後65年の平和はその反省のもと「戦争の鎖」と決別するために設けた憲法九条によってもたらされたものである。

 しかし、政府高官や保守派を自認する知識人から「明治維新以来の日本の戦争」を肯定する意見が多く発せられ、いまや社会問題となっている。日本の侵略戦争に対する政府の公式見解を批判する論文を書いて辞職させられた元航空幕僚長・田母神俊雄氏の言動は記憶に新しい。

 同氏は「日本は19世紀の後半以降、朝鮮半島や中国大陸に軍を進めることになるが相手国の了承を得ないで一方的に軍を進めたことはない」と主張してきた。

 このように歴史認識の修正を語りだしたのは、田母神氏だけではない。伊藤之雄(ゆきお)京都大学教授は、「伊藤博文は韓国併合には反対で、韓国国民の自発的な協力を得て、韓国を近代化させようとした」という、これまでの通説をねじ曲げた論調が大新聞の紙上に掲載された。

 また、加藤陽子東大教授の著書、『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』はベストセラーに。「それでも」という接続詞から、日本は戦争なんかしたくなかったが、それでも、ほかに道がなかったから戦争を選んだと、読みとれる。これも歴史認識の修正のひとつである。

 こうした流れに抗して、近代日本の歩みをきちんと検証する『近代日本の戦争 台湾出兵から太平洋まで』を梅田正己氏(高文研・1890円)が刊行した。千代田区の高文研を訪ね、梅田氏に刊行の動機を聞いた。(聞き手・葛西建治)


歴史の修正は許せない

Q 一昔前なら暴言の責任を追及され、「クビ」になったはずの田母神氏が退職金をガッポリもらい、戦後の歴史事実を全否定したのに「タモちゃん現象」ともてはやされる日本の現状は

梅田
 田母神の発言は見逃せません。植民地支配でのいいことをやったとか、太平洋戦争で植民地が独立できたとかは、これまでも繰り返し言われてきたことですが、きちっとした反論が行われてきたかというと、疑問があります。かつて橋本元首相は朝鮮を植民地にしたことは問題と発言し、中国へ侵略したことも認めていますが、東南アジアについて日本が侵略したのかについては保留すると首相時代に明確に言いました。

 東南アジアの独立は日本の大東亜戦争によるなどの主張は史実と反すると、きちっと言っているもの(著作物や講演)は少ないのではないでしょうか。田母神さんは、自衛隊の幹部たちを集めた教養講座を開き、右翼の歴史家など呼んで講演をさせています。

 昨年の広島の慰霊の日に田母神氏の講演があり、それが大問題になりましたが、政府の見解と異なることを自衛隊の最高幹部が公然と発言したことに、なんのおとがめもなく、退職金は貰い、歪めた史実で講演活動を続けることは許せないものがあります。


68年間で10を超す戦争

Q 正面から実証的に切り込んだのは、梅田さんが初めてでは

 私の知る限りでは、この本が最初と思っています。講演会などでは、著名な人たちの田母神氏への批判はありますが、本にはなってはいません。逆に田母神説を普及するために、沢山の本が出され、『貢献』しています。

 「近代日本の戦争」という題にしましたが、高校の歴史教育の中で、きちんと教えられていない部分です。日清戦争が何を目的に始まったのか、知っている人がどのくらいいるでしょうか。教育の中に大きな空白があるのです。

 そこに付け込んで「坂の上の雲」がTVで昨年末から始まり、それを批判の本も出しました。伊藤博文は平和主義者だったと「坂の上の雲」にも書かれていますが、いま、それを補強し、その旗をさかんに振っているのが、京都大学教授の伊藤之雄氏です。毎日新聞の文化面に「伊藤博文と韓国併合」を大きく掲載し、日韓併合を強引に進めた人物を、韓国の近代化を目指した人物とさかんに美化しています。
 こうした歴史修正主義の傾向が今の歴史学界の主流を占めつつあるのです。

 私は本で10の戦争を取り上げましたが、その他にノモンハン、二度の山東半島への出兵があり、それも含め、これまでの戦争が有機的に繋がっているというとらえ方は少なかったし、一般向けの本ではこれが最初ではないかと思います。

 歴史の本には、日清、日露戦争、日中戦争とばらばらに叙述され繋がりが分かりづらいのです。シベリア出兵がその後の満州事変に繋がります。

 わずか68年の間に10を超す戦争を日本は引き起こし、その戦争がひとつながりになっいるのだというとらえ方、記述が、これまでの歴史書ではなかったと思います。私自身もこの本を書く過程で確認できたことです。

 明治の始めに台湾出兵がありましたが、その時から大日本帝国の方向は見えていました。領土拡大と植民地確保です。担当部署の英語名は、コロニゼーション・オフィス(植民地建設局)でした。この基本方針が最後まで近代日本の背骨だったのです。

Q 司馬遠太郎にも触れていますが

 司馬は大東亜戦争は戦争ではないと言い切っています。竹槍でB29を落とそうなどマンガにもならない悲惨な戦争だったと。彼は満州の戦車学校を出て、本土決戦に備え、茨城の戦車隊にいて、避難民にあふれた道路を戦車がどうやって東京に行けるのかと隊長に尋ねると「ひき殺していけ」と言われたと書いています。当時の日本陸軍の非人間的・非現実的な実体験者として司馬は紹介し、太平洋戦争の軍部に冷めた見方をしているのは間違いないことで、それがあの人の平和主義の原点だったのではないかと思います。そういう軍の最高指揮官は天皇です。愚劣な軍を作った、天皇については物を言いたくない気持ちはあるでしょう。

 日露戦争を映像にすると、ただの戦争映画になってしまう。だから、司馬は映像にはするなと言い、昭和の戦争も書いていません。その正反対の時代として明治を賛美します。明治国家は素晴らしかった。明治の日本人は素敵だった、しかし、台湾、朝鮮、南樺太の三大植民地を戦争で獲得したのが明治だったのです。結果的に明治を賛美したことになります。


“戦争の鎖”から解放が憲法九条

Q 「天皇陛下万歳」はいつの頃から始まったのでしょうか

 兵士が戦死の間際に叫ぶ「天皇陛万歳!」は、やはり日中戦争の頃からではないでしょうか。軍人勅諭で「朕は汝らの大元帥なるぞ」と宣言するのは明治15年ですが、天皇=現人神、すべてを天皇と国家のためにという思想が叩き込まれていくのは、やはり明治23年の教育勅語の公布以降だと思います。

 その日本の天皇制ですが、ご承知のように「万世一系」が不可分でした。明治憲法の第一条も「大日本帝国は万世一系の天皇、之を統治す」です。これは、古代・中世以降の東アジアの「華夷秩序」に対抗した日本のナショナリズムと密接な関係があるような気がします。つまり、前近代の東アジアは、中華帝国を中心に、朝鮮や琉球、インドシナなどの諸王朝は中国と朝貢−冊封関係を結ぶことで自己の地位を保証され、併せて貿易の利得を得ていた。ところが中華帝国は王朝の交代が幾度も起きる。それに対し我が国は「万世一系」、そこに日本ナショナリズムの優位性とアイデンティティーを確保しようとしたのではないでしょうか。


戦争を知らない若い人に

 原爆投下を含む国土破壊と飢餓状況のなかから、明治維新以来続いた“戦争の鎖”が断ち切れたのです。戦争による惨禍が徹底的だからこそ戦争否定も徹底しています。歴史を振り返り“戦争の鎖”をたどるとき、憲法九条は新たな相貌をもって立ち上がってくるはずです。




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鈴木彰の「核廃絶の機運に水差す菅発言」




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「九条を生かす」

 前号で、その危険性を指摘した核持ち込みの容認とあわせて、日米同盟の深化のための日本の役割強化の強調した菅直人首相の私的諮問機関「新たな時代の安全保障と防衛力に関する懇談会」(座長=佐藤茂雄・京阪電鉄最高経営責任者)の報告書が8月27日正式提案されました。

 この間、核三原則のなし崩し改ざんにはきびしい世論の反発があり、報告書は若干の手直しがされました。しかし、指摘した基本は変わらないだけでなく、その後の菅内閣の動きは、いっそう核抑止力への傾斜、アメリカヘの依存等、深みにはまりつつあることを示しています。

●被爆国の指導者がそんなことしか言えないのか、菅首相の発言に失望

 菅首相は広島の平和記念式典で核廃絶を進める先頭に立つと霊前に誓ったすぐあとで、「抑止力は必要」と矛盾する発言をしました。秋葉忠利広島市長が、あいさつで求めた、「核の傘」からの離脱について、仙谷由人官房長官は「核兵器を含む大量破壊兵器の拡散といった危険が増大するなど引き続き不透明、不確実な要素が存在する中で、米国の核戦力を含む抑止力は引き続き重要だ」と、否定的な見解を示しました。

 その根深さは新安保懇が、年内の改定を目指して作業が進められてきた防衛計画の大綱(防衛大綱)と次期中期防衛力整備計画(中期防)の策定について、鳩山政権が前向きの姿勢を示したことやこの報告書作成のメンバーが自民党時代の継承者となっていることにも現れています。メンバー11名中、安倍・福田・麻生内閣当時の委員を務めた4名、他に名前は変わっているが元防衛事務次官、前統合幕僚長が含まれています。

●絶対に容認できない非核三原則の見直しの動き

 こうした動きに対し、長崎県の非核の県民の会は8月29日、「非核三原則の見直しのなし崩し的な撤廃を断じて許すことができない」との抗議文を菅首相や新安保防衛懇のメンバー全員に送付すると表明しました。抗議文は28日開催した同県民の全総会で採択され、、中村尚達代表世話人は、「核持ち込みを認めることは、日本が完全にアメリカの核戦略体制に組み込まれる、日本が他国からの核攻撃に直接的にさらされることになる。核廃絶へ向かっている世界の潮流に逆行するものだ。唯一の被爆国としての核廃絶のリーダーシップをとるべき日本が今後の核廃絶を主導することは不可能となってしまう。政府に非核三原則の法制化を求め、核廃絶へ向けて世界に先がけた努力を要求する」と述べたと報じられています。

 広島を訪れた潘国連事務総長は式典で「皆さんは力を合わせ、広島を平和の「震源地」としてきました。私たちはともに、グラウンド・ゼロ(爆心地)から「グローバル・ゼロ」(大量破壊兵器のない世界)を目指す旅を続けています。それ以外に、世界をより安全にするための分別ある道はありません。なぜなら、核兵器が存在する限り、私たちは核の影に怯えながら暮らすことになるからです」とあいさつしました。

 秋葉忠利広島市長は「意思表明は、来週開催される核安全保障サミットや来月のNPT再検討会議を前に、核兵器廃絶に向けた世界的なうねりを作り出すものである。こうしたうねりを活かし、2020年までの核兵器廃絶に向け本市や平和市長会議の取組を一層強める決意を新たにした」と述べています。

 民主党内閣になっても、かつては密約で国民を欺き、今はその踏襲で実質的な改憲が進められています。しかし、情勢は達ってきてます。9条を生かす国民的な運動の広がりで新しい展望を切り開くことが出来るときです。
(編果長 鴨川孝司)




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短 信

「所沢平和のための戦争展」を終える

 今年で23回(8月1日〜4日)を迎えた戦争展は、入場者が11OO人を超え、盛況のうちに終えることが出来ました。

 今年のメイン・テーマは昨年と同じ「核も戦争もない世界に」でした。今年5月、ニューヨークのNPT再検討会議には世界中から核兵器をこの世から無くそうと多くの人が集まりました。所沢から参加した人の報告コーナーも設けました。

 所沢の戦争展でも、3年前に所沢の戦争展でも取り上げたクラスター爆弾禁止条約が、今年8月1日から発効しました。所沢戦争展も世界的視野にたって、NGOとの連携を強め、活動しなくてはと思っています。

 来年は、所沢基地(飛行場)100年です。所沢に根ざした展示をどのようにしようか、今から考えていきたいと思います。
所沢戦争展実行委員会事務局長 山田 裕


 今年「マスコミ・文化 九条の会 所沢」も初参加しました。ブースには、「基地はいらない」をテーマに、米軍基地の問題点をアピールしました。今後、ビデオをつくって全市民に報告してゆこうと、作製を進めています。


映画「いのちの山河 日本の青空」

日 時 10月24日(日)上映午後6時30分から
場 所 ミューズ中ホール
鑑賞料 一般・前売1200円
主 催 所沢みんなで映画をみる会 04−2992−9927渡辺




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