機関紙47号 (2009年8月4日発行)new!



もくじ
憲法九条を守る新たな一歩を
民主党政権は官僚退治が目的か?
    島田三喜雄(元東京新聞記者、日本ジャーナリスト会議連営委員)
64年目、「転換期」の夏に語る 1
   江田島、組合運動、生協そして原水禁大会
    坪井俊二さん(原水禁世界大会議長団・緑町在住)
64年目、「転換期」の夏に語る 2
   峠三吉の志をいまに
    増岡敏和さん(詩人・青葉台在住)
  ・64年目、「転換期」の夏に語る 3
   憲法施行に巡り会った世代はこの憲法を守り、若い世代に伝承する責任がある
    藤巻忠雄さん(元東京電機大学教授・中新井在住)
風化
    中原道夫(詩人・上新井在住)
あれこれ (21)
   沼田先生の絵
    増岡敏和(詩人)
だれが憲法を壊すのか ポスト自公政権の危うさ
    竹腰将弘 (ジャーナリスト・山口在住)




憲法九条を守る新たな一歩を

会員のみなさん

 いま、「日本国憲法九条」は新たな「改悪」の危険な策謀にさらされています。井上ひさし、大江健三郎さんら9名によるアピールが出されて5年目を迎え、全国各地各分野に約7500の「九条の会」がつくられ、改憲の動きを抑制する大きな力となってきました。

 自民党は、ひろがりを見せる「九条の会」の活動をまえに、正面からの「改憲」をさけ、迂回作戦で「九条」の骨抜きを狙っています。海賊対策と称してソマリア沖へ海上自衛隊を派遣するなど、自衛隊を世界のどこにでも出動できる海賊対処法を強行成立させました。

 また、来年5月の「改憲手続き法」施行に向けて、憲法審査会の設置も衆院で強行可決されました。さらに、自民党は総選挙公約に衆議院議員の比例定数の大幅削減を掲げています。民主党も議員削減ではほぼ同じ主張をしています。国民の民意を正しく反映する比例部分を削減し「民意をねじまげる」改悪の狙いは、「九条擁護」勢力の排除をはかる深謀遠慮に他なりません。

 一方、いま世界ではオバマ米大統領の「核のない世界」実現をめざすプラハ演説に大きな共鳴がおき、世界各地で核廃絶への積極的な取り組みが始まっています。これは憲法九条を守り、世界に広げるうえでの大きな希望でもあります。

 こうして、8月30日に投票される総選挙は、日本を「戦争をする国」にさせない、国民の意思を表明するための大事な選挙となっています。

 こうした複雑な情勢のなかにあって、私たちは4年目の総会を6月27日に持ち、今後の方針を明確にしました。総会では、会の結成以来毎月発行しているニュース、「9の日」の駅頭宣伝、時宜にあった学習会の開催、基地ウォッチング、文化展、会員の交流と所沢にある「九(9)条の会」との連帯など、さまざまな活動への確信を持った発言が相次ぎ、九条運動の新たな発展に向けて決意を揺さぶられる総会となりました。

 九条を守ることと生活を守ることは切り離しがたく結びついているし、言論の自由を守り発展させることも会の大事な活動であるとの理解を深めました。さらに文化を身近なものとして親しんでいく運動を積極的に取り組んでいくことも確認されました。そして、はばひろい運動を展開していくために代表制(5名)にして体制の強化をはかりました。

 いま私たちに求められていることから見れば会の力はまだまだ非力です。しかし、この4年間の経験を生かし、会員のみなさんの知恵と力を結集することができるならば、憲法をみずかちのものにしていく新しい運動を展開することができます。そのために、もっと多くのかたがたに入会を心から呼びかけ、会員を500人から1000人へと、ともに活動する仲間を増やしていきましょう。

2009年7月
「マスコミ・文化 九条の会 所沢」世話人会



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民主党政権は官僚退治が目的か?

島田三喜雄(元東京新聞記者、日本ジャーナリスト会議連営委員)

 英国をまねるが、財界に遠慮、米国には追従民主党が発表したマニフェストは、5原則と5策を掲げ、原則1は「官僚丸投げの政治から、政権党が責任を持つ政治家主導の政治へ」とあり、第1策には「政府に国会議員約100人を配置」などとうたう。これは英政界の真似だろうか。財界には遠慮し、強大な米国には追随する。

 現行の衆院選挙制度は、小選挙区比例代表並立制だが、その比例部分削減については、少数意見の抹殺を図る暴挙というべきだ。

 時あたかも議会制度の先進国とされる英国では、選挙制度をめぐって政界が混乱の真っ最中にあると朝日特派員が伝えている。(6月13日)

 大野博人欧州総局長によると、英国政界が混乱している最中に、民主党の菅直人代表代行が英国の政治制度を「学び」にロンドンヘ。

 大野総局長は「今、英国で起きているのは単純な危機ではない。政治制度そのものの危機だ。日本が英国から学ぶべきことがあるとすれば、その成功ではなく失敗の意味ではないのか」と報告する。

 今や英国では単純小選挙区制ではなく、下院選挙での比例代表制の導入、行政府から立法府への権限の委譲などの案が挙がっている。比例代表制を導入するよう、識者や大物閣僚のアラン・ジョンソン内相らが主張。2大政党に傾斜したのでは、小政党に託された民意が無駄になり、国民の声を反映した議会になりにくくなるからだ、と主張されているという。

その英国で比例代表制度導入の声高まる

 大野総局長は「比例代表制導入の声が出ていることは、日本の民主党などが目指す二大政党制に疑問符がついていることを意味する」と報告する。

 政府に国会議員を送り込む問題についても、「実は英国がサッチャー政権以来続けてきたのが、行政府の強化だった。官僚の力を抑える目的で大量の議員を閣僚や閣外相にして送り込んできたこともそうした面を持つ」。

 ところが、「大臣」になった議員が当然に政府を支持するばかりか、順番を待つ議員も政府に同調。議会が政府をチェックする使命を忘れる。いまや、これら議員の経費乱用問題で英国政界は大荒れだ。

 菅さん、きちんと勉強しましたか?

 2大政党制度の下での単純小選挙区制が民意を反映できないため、これにメスを入れるかどうかが注目されているが、ブラウン首相は言及を避けているという。

 日本の選挙制度に小選挙区比例代表並立制が導入される際、新聞界は大いにこれをはやし立てた。日本政治の改革を大きく遅らせた責任を、いまや厳しく問われるべきだろう。

 その当時、各国の政情を分析、紹介しながら、正確な警告を発したのが朝日の石川真澄編集委員だった。

欧州諸国で小選挙区中心の国は一つもない

 朝日は社説で賛成論を掲げ、石川さんは辞表を懐にして、反対論を書かせてほしいと、社の首脳に直訴。朝日の言論の面目は、石川さんが展開した社説とは別個のコラムに辛うじて救われた。

 石川さんの連載「現代史ウォッチング」の一部を紹介する。《「穏健な多党制」に数えられる国々は、いずれも純粋な比例代表制を採用しているのが実情だ。……西ドイツ、ベルギー、アイルランド、スウェーデン、アイスランド、ルクセンブルク、デンマーク、スイス、オランダ、ノルウェーなどの欧州諸国で、小選挙区中心の国は一つもない。……連立与党が合意した並立制は小選挙区が軸となった制度だから、穏健な多党制に「おのずから収斂していく」(首相答弁)というのは現実の証拠がないことになる」》93年8月4日。

政権交代は歓迎だが憲法改悪は許さない

 昨年3月9日の「しんぶん赤旗」は、「小選挙区制 自民から害悪論しきり」の記事を掲載。中曽根康弘元首相「多元的な言論、自己を主張する人材が非常に少なくなりました。ある意味において政治を貧困にしています」。森喜朗元首相「いま共産党を除いてほとんど変わらないじゃないですか。やっていることも、言うことも」。武部勤元幹事長「自分と考えが違う人の票ももらわないと当選できないというのも大きな問題」。

 自公政権に終止符を打ち、政権交代が起こること自体は歓迎するが、憲法改悪、比例定数の削減、財界のひも付きは許せない。軍事同盟である安保条約堅持でなく、日米平和友好条約への転換こそ求められている。



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64年目、「転換期」の夏に語る 1

江田島、組合運動、生協そして原水禁大会

 坪井俊二さん(原水禁世界大会議長団)(緑町在住)

 海兵時代、江田島で原爆に遭遇。除隊後は東大に進み、労働組合や生協で活躍され、戦後史の生き字引のような坪井俊二さんに戦中・戦後のお話しを伺いました。(聞き手・鴨川孝司)

 敗戦の日、8月15日は江田島の海軍兵学校で迎えました。6日の朝、原爆の炸裂する一瞬のピカッを見ました。敗戦の色濃く、ここで勉強するには地下壕を作らなければ駄目だと言うことで、御殿山に地下壕を掘っていたんです。トロッコで泥を外に運び出していました。交替と言うことで外に出たとき、ピカッときたのです。なんという一瞬に巡り合わせたのだろうかと思いました。

 ピカッと光りキノコ雲が上がってきた、なんだろうと思いました。呉の弾薬庫の爆発かと思いましたが、方向が違います。そこは海軍です、直ぐに情報が入りました。新型爆弾と言うことでした。今では冗談で笑っちゃうのですけれど「君ら男性は生殖機能が冒されるから鉛の板を腰に巻き付けておくように」と言うのです。そんな物はありはしません。マッチ箱位の爆弾で戦艦大和や富士山をぶっ飛ばせるぐらいの爆弾を研究していると言う話は聞いていました。それかなという思いはしました。9日経って終戦でした。江田島から船に乗ってどこに上陸したかまったく覚えていません。広島駅まで歩いて、そこから貨物列車で36時間ぐらいかかって東京に帰ってきました。

 私は海軍に行ったのは親が早く死んで、勉強するには官費で行ける兵学枚を選んだのです。燃え立つような軍国主義者ではなかったのですが、学校は4ヵ月半、上級生になぐられっばなしでした。

 兵学校に行く前、母は2月22日病気の悪化で死にました。その頃、燃料がなかったので、木を燃やして茶毘にふしました。あれは辛い思いでした。母は「陛下のための死ぬことだけではないよ。生きていくことが必要なんだよ」との意味のことを私に話して翌日亡くなりました。あの頃の教育はそういうことを染みこませましたものです。陛下のために死ぬことは当然だし名誉なことだと。その気になっていたらお袋がたしなめたのでしょうね。

 江田島から帰って、旧制高校を経て、東京大学に入学したのですが、マッカーサーの命令は「軍からの入学者は1割を超えてはならないと」制限付きでの許しでした。大学ではアルバイトの日々、生協で授業内容をプリントして売って稼いていました。かろうじて卒業したのです。

 私は労働運動のできる企業を探して、日本精鉱所に就職しました。無謀な話しですが、入社の次の年に、組合の委員長に立候補したら、久しぶりに元気のいいのがいると当選してしまったのです。

 その労働運動で、室蘭製作所が192日の長期ストを続けました。そこに広島にいた私が応援に熱中しました。結局、首になってしまったのですが。勉強になりました。労働運動を一生続けようと思ってもあえなく潰えてしまったのです。

 首になったら何しようかと考えて、ロシア語を独学で勉強しました。それを聞きつけた友人が「生協連合会の貿易をやることになった。その相手国がソ連だ」というのです。歴史のあるソ連生協との貿易を始めました。国際協同組合同盟という組織があり、そこに戦後初めて日本が入り、私たちが、最初に訴えたのが原水爆禁止でした。ソ連の代表はとても感激して、いろいろおつきあいしましょう。生協同士だから、物資の交流をバーターてやろう。買う物はないが材木を買いました。2年ばかりやっていましたか、新潟の大火の時は役立ちましたね。

 戦中戦後の苦しさの想い出と言えば、精神的には原爆を見たことと、もう一つは就職した広島にある日本精鉱所。4ヵ月の試用工期間を終わって、社員に登用され、晴れて労働運動を始めたのです。気になったのは原爆の経験ですよね。組合長だったから、実務を離れて、かなり多くの人にあって話を聞くことをやりました。でも、原爆のことを話さないんですよ。誰も、どこもそうだったらしいですけど。放射能汚染は遺伝するだとか、子ども達の結婚に差し支えるとかとんでもない魔物にとりつかれたような、他人には絶対話したがらなかったですね。ひどかったけんのう。あんなことはあってはいかんのうと言うが。詳しくは話しません。それが原点で原水爆禁止運動を始めました。

 54年の第5福竜丸で日本は大騒ぎになりました。これが端緒に広島、長崎で事実を語るようになってきたのです。55年、ビキニ事件の翌年に、原水禁世界大会の第一回が行われました。マッカーサ司令部はそれを厳重に封じ込めましたからです。

 今年も大会が開かれますが、感想決意を聞かれるのですが、一言言わしてもらっています。オバマ氏が言ったから急に変わった…。そんな単純なものではありません。アメリカではここ2、3年変化が生まれています。世界中から核を一掃する決議(核兵器不拡散条約『NPT』)が米国を含めて決議されたのが、いまから9年前にありました。しかし、同時多発テロで頓挫しますが、この2000年の約束をいま再確認する方向にあります。昨年1月18日付けのウォール・ストリート・ジャーナルに、ニクソン政権の国務長官だったH・キッシンジャー氏ら元米政府高官が「核兵器のない世界へ」のアピールを出しました。オバマ氏がマニフェストに取り入れたのが2008年の7月です。彼は「私はアピールに賛同する」とはっきり言っています。

 これは私の意見ですが、ソ連がつぶれたのも軍備に過大な金を注いできた結果です。アメリカもこのままでは倒産する。国民経済に還流しない武装の中心に核があります。ですから保守層にまで、その理解が広がっていったのではないかと思うのです。奥深いのです。

 九条の会もどんどんできてきて、変わってきていますね。原水爆に一貫して反対してきた政治勢力に勝たせたいものです。



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64年目、「転換期」の夏に語る 2

峠三吉の志をいまに

増岡敏和さん(詩人・青葉台在住)

 会報に「あれこれ」を連載中の増岡敏和さんを訪ねて、原爆詩人・峠三吉との交流などお聴きしました。(聞き手・葛西建治)

 終戦の日には、私は故郷・広島にはおりません。予科練に入り高知と愛媛の県境の深浦という町に軍隊疎開していました。そこで終戦を知りました。記憶が定かではありませんが、ラシオを聴いて敗戦を知ったのでしょうか。

 「あれこれ」にも書きましたが、6日に広島に原爆が落とされ、3歳半下の妹、玲子(1932年生まれ)やいとこたちが爆死しました。玲子は広島日赤の隣の山中高女の1年生でした。夏休みですが、学徒動員で学校に集まり平和公園近くで家屋疎開の作業に集まったところに原爆が玲子の近くで炸裂しました。玲子は広島から近くの金輪島に運ばれたことを家の近くの2階に下宿していた将校が偶然にも目撃して教えてくれ、母はすぐに金輪島に駆けつけたのですが、隣島ですでに焼かれたあとで、誰かの灰を一握り持ち帰ったそうです。玲子の遺骨はありません。玲子だけでなくいとこも死に、母も叔父も妹らも被爆しましたが、私だけが軍隊疎開で免れました。

 軍隊から復員して私は税務署に職を得ました。そして詩作を始めるなかで、36歳の若い生涯を終えた詩人・峠三吉に生前出会い一緒に運動するようになります。私が編集長で、峠は発行者。私たちは峠をを立てながら「われらの詩(20号まで)」、「反戦詩歌集(2号まで)」を刊行して詩運動に没頭します。私たち後輩の詩人を指導して大きな運動に導いたのも峠三吉です。峠は病身で仕事はしてなかったが、奥さんは、ご馳走するのが好きな人で、私たちはそれも峠に会う楽しみの一つでした。

 当時はアメリカの占領下で、日本人の全ての集会や出版に禁止令を出していたが、峠と私は無届けで刊行しました。8月の平和集会などでも10人程の詩人、歌人で全冊売り尽くしたこともありました。

 仲間と核兵器廃絶を謳った、ストックホルムアピールを掲載したビラを作り、裏面にはなにが書いたか忘れましたが、福屋デパートの8階からビラを撤くことにしました。病身の峠は1階。私は高度恐怖症があるので4階の階段から窓を開けて(ガラスなどありません)から撒こうとしたのですが、掃除の人がきたので躊躇してビラの束を揃えて置きました。すると、その掃除の人は箒でビラを全部外に掃き出したので、私が撒くまでもなく広島の空にビラが飛んでいきました。そんな抵抗を占領下の広島で試みました。アメリカの大統領が核廃絶を言う時代です。峠三吉の志はいまに生きています。

 税務署の職場も昭和25年にレッドパージで追われ、昭和28年には峠三吉も36歳で病気で死去します。私は解雇反対闘争でしばらくは広島に留まっていたのですが、詩誌「樹木と果実」の編集をしにこないかと、東京の詩人たちに呼ばれて上京します。文学では到底食べられないので、やがて、板橋の日本金属という大きな会社に入りますが、後から入った人が正社員になるのに、私はいつまでも臨時職員のままでした。レッドパージのせいでしょう。

 長年苦労をかけた、かみさんは私のいまの詩より昔書いた叙情的な詩が好きだと言います。どんな詩なのか私の詩集『飛ぶ種子』に収録されたものから一編を紹介します。


燃える芝

玲子・れんこん・れんげ草、
幸子・サツチン・さくらんぼ。
二人の少女に仇名をつけて、
いつも
相撲相手にしたむかしのうらうら。

閃光に薙払われて反転し、誰が
たれともわからず天日にさらされて。
廃墟にゆらめく陽炎もろとも、
ゆらゆら屍臭たちのぽらせて。

真夏日の犬もいない公園の
めらめら燃える芝の真ん中に、
いま幻に顕ち、鬼の舞うなる

 広島に育ち、父を戦争で亡くし、妹も原爆の犠牲になりました。母も祖母も被爆。広島に生きてきた人間には「原爆」の悲劇が「終戦」より、いまでも重くのしかかります。「原爆症はうつる」、「銭湯には入れない」などなど無知や偏見で被爆者の戦後は辛苦の連続でした。

 オバマさんの核廃絶宣言には期待します。素直に受け入れられないこともあります。さて、核廃絶の実現より、どうやら私の寿命の方が先のようです。これまで二百〜三百の詩を書いたでしょうか。短歌も少し書いてきました。詩は死ぬまで書き続けます覚悟でいます。



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64年目、「転換期」の夏に語る 3

憲法施行に巡り会った世代はこの憲法を守り、若い世代に伝承する責任がある

藤巻忠雄さん(元東京電機大学教授・中新井在住)

 医療用の小型高速モーターの開発などで知られる自動制御研究の第一人者、藤巻さんに風船爆弾や高崎空襲のお話しなど伺いました。(聞き手・葛西建治)

 敗戦の時は中学3年で高崎におりました。空襲は時々ありましたが、最後は8月15日の明け方に大きな空襲があり、駅の近辺が燃えてしまいました。高崎には軍需工場は少ないのですが、太田、大泉に中島飛行機の大工場があったので、空襲は年中です。B29の大編隊が高崎からも見えました。この頃はすべての物が逼迫し、学生服は着ただけの一着、靴も一足だけ、下着、靴下も穴があけば母が繕い、弁当は麦の多い御飯と漬物だけです。全く悲惨な時代でした。それでも病に倒れず、毎日のように襲来するB29の弾にもあたらず生き長らえたのは、ただ神の恵みとしか考えられません。

 中学の1年までは英語の授業もありましたが、2年からは敵国語ということでなくなりました。今の高崎製紙に勤労動員され、製紙工場でも旋盤などの機械を据え付けてあり、電波探知機(レーダー)の部品を作らされました。もともとは製紙工場ですから、養蚕地帯の桑の木の皮をはいで紙をつくっていました。これが、鹿島灘から季節風に載せて、米国本土攻撃を目的とした、風船爆弾の材料になりました。

 当時、私たちはそれが爆弾の材料とは知りませんでした。紙を作っている所がなんで軍事工場なのか疑問に思っていましたが、週に一回は憲兵が来ていました。「本工場は大事な軍事兵器を造っている」と工場長は言っていましたが、紙が兵器になるとは想像もしませんでした。

 8月15日は高崎が朝方空襲を受けて、スイスを通じてポツダム宣言受諾を伝えてあるのに、空襲して多くの命が失われました。学校へ行ったら帰っていいと言われ、田圃の中の家に帰り、お昼ごろは川に泳ぎに行き、ぶらぶらしていたら、高崎から自転車で帰った人が「おーい戦争に負けたぞ」と大きな声を出しながら村の中を駆け抜けていきました。天皇陛下の声は聴けませんでした。空襲での停電のせいもありましたが、とにかくラジオが「ガーガー」で聞こえませんでした。戦争が終わったら米兵が学校に来ました。ジープの後ろに荷物を積む台車を繋げて、軍事教練で使っていた三八歩兵銃を集めに来ました。菊の紋章がついているので、軍事教練のときは、磨いて磨いてびかびかに光っているのを米兵はいとも無造作に台車に放り投げて帰っていきました。敗戦を実感しました。

 中学3年のときに憲法が施行されて学校では、ざら紙に刷られた日本国憲法が配られました。説明する先生もよく分からなかったようです。数年前まで日本のいいとこばかり言う人でアメリカが来たら、男は全部殺されるぞと言っていました。そんな程度の教師ですから、急に新しい憲法と言われても戸惑いがあったのでしょう。

 高校を卒業してからは東京に出たかったのですが、農家ですから金も無く、地元の群馬大学の工学部に入りました。工学部は桐生ですが、医学部、工学部、教育の3学部の教養は前橋の校舎でした。専攻したのは電気工学なんです。群馬大学から東工大の大学院に進みました。

 その頃から機械工学は新しい時代を迎えて、いまで言えばオートメーション、自動制御という新しい研究科目ができ若い先生について研究を続けました。農家ですので金はありませんでした。奨学金やアルバイトで食いつないでいました。

 制御の技術もアメリカの方が数段進んでいて、アメリカの本をただ読んでいる毎日でした。東京工大を卒業後は請われて東京電機大学で自動制御の研究を続けられる機会を得ました。助手から、助教授、教授になり定年まで東京電機大学に籍を置きました。

 「政治家や改憲論者がこの憲法はアメリカから押し付けられたもので改憲しなければならないとわめいていますが、それは当時の苦難を全く知らないで、歴史の真実を反故にしようとする企みです。この憲法は、1000万ものアジア人を殺傷し、300万の国民の生命を奪った未曾有の戦争の犠牲の上に出来上がったものです。1947年5月3日の憲法施行に巡り会った世代のわたしは、「この崇高な憲法をしっかり守り、若い世代に伝承する責任がある」と、以前に会報に書いたことがあります。



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風化

中原道夫(詩人・上新井在住)

風化

中原道夫(詩人上新井在住)

その喜びと その悔しさ
復興と 風化

それは樹々の緑と
忘れ去られていくもの

これが原爆ドームです
一九四五年八月六日、一瞬の閃光で……

青い眼の観光客がシャッターを切る
日光、箱根、京都に続いて原爆ドームが
彼らのデジカメの中に等しく写される
それは苦しみや痛みの写らない
ジャパン旅行の思い出の一つとして

耳をすませろ 心を鎮めろ
踏みしめた地面の下から
いまだに死にきれずに彷徨っている
被爆者の声が聞こえてくるではないか

ぼくらはその上を歩いている
ぼくらはその上にビルを建てている

立ち止まる人の少なくなってきた
峠三吉の詩碑に掌を合わす
 ちちをかえせ ははをかえせ
 としよりをかえせ
 こどもをかえせ

詩人の叫びが 詩人の願いが
詩人の平和への祈りが胸にこみ上げてくる

けれど、その声を遮るかのように
夕日に照らされているのは
復興目覚ましい広島の
乱立するビルの姿であった

(「詩人会議」09年8月号より転載)


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あれこれ (21)

沼田先生の絵

噌岡敏和(詩人)

 私の書斎には絵も二枚ほど、飾っている。その一枚は画家の沼田秀郷先生に生前描いてもらったもので、私の顔中心のコンテ画である。「1998年7月、NUMATA」と署名されている。絵の裏側には「増岡さんの御仕事に敬意を払い、心をこめて描く、沼田秀郷、1905年10、31生まれ92歳」と、恥ずかしくも尊くサインしていただいている。眼は細めに唇は厚く鼻孔は大きめに髪はざんばら気味に、顔は逞しそうに描かれている。私としては実際より「男前」に表現されているように思われる。私の好きな顔ではある。その日は妻と一緒に伺ったので、沼田先生は妻の顔も描いていただいた。私の絵より彼女の方が整っているのは仕方ないが、彼女は自分を部屋に飾るのをはにかんでいて、そっと納めている。



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だれが憲法を壊すのか ポスト自公政権の危うさ

竹腰将弘 (ジャーナリスト・山口在住)

 わが上田清司県知事はしばしば恐ろしい発言をする人で、7月1日の県議会では「日本の国旗が嫌いだというような教員は辞めるしかない」と言ってのけました。憲法19条の「思想・良心の自由」など鼻にもかけない乱暴な発言ですが、同氏はもともとは民主党の代議士。しかも、上田氏のような憲法観は民主党のなかで「異端」でもなんでもなく、同党が根っからの改憲派集団であることを私たちは忘れるわけにいきません。

 今回の総選挙での民主党マニフェストの憲法政策。うるさいほどにオブラートに包みながら、「改めるべき点は改める」としているのがミソです。その「改めるべき点」の標的はどこかといえば、マニフェスト中にある同党が05年にまとめた「提言」が「国連」の名においての海外での武力行使に道を開き、9条2項を改定の対象としたことでも明白です。

 党代表の鳩山由紀夫氏が05年に発表した『新憲法試案』が「戦力の不保持」を定めた9条2項を「現行憲法の最も欺瞞的な部分」と敵視し、「第50条(自衛軍)日本国は、自らの独立と安全を確保するため、自衛軍を保持する」と書き込むことを主張していることも次第に知られ始めました。

少数政党蹄め出しの策動

 民主党の改憲論でとくにタチが悪いのは、選挙制度改悪と結びついていることです。同党マニフェストは「比例代表定数80削減」を掲げ、国会から少数政党を締め出そうとしていることはきわめて重大です。鳩山氏が前出の著書で「祖父鳩山一郎」が「小選挙区制に変えようと試みた」のは「憲法を恋えるために…極めて安定した与党を作らなければならなかったからである」とのべていることを重ねあわせればその意図はあからさまな改憲シフトだといわなければなりません。

 鳩山氏はしばしば鳩山一郎元首相の「DNA」が自分に流れていると語りますが、戦後の首相として初めて改憲を政治日程にあげようと企み、「ハトマンダー」と呼ばれた小選挙区制導入を画策した手法が、そのまま引き継がれているといえるでしょう。

 こんどの総選挙では、自公政権が国民の厳しい審判を受け、民主党中心の政権が生まれる可能性が高いといわれます。しかし、その結果が、日本を海外で戦争をする国にする九条改憲につながることを望む人は、ほとんどいないのではないでしょうか。

憲法を守る人をどれだけ送れるか

 その改憲志向の危うさがひとつの要因となって国民に見放され2007年参院選でなぎ倒された安倍政権がそうだったように、九条改憲の動きが強まれば強まるほど、「九条の会」をはじめとする国民の改憲阻止のたたかいは大きく広がります。その国民運動と共同して、国会の場で体を張ってでも「憲法九条守れ」という勢力を今度の選挙でどれだけ国会に送り込むことができるか。今度の総選挙の大きな争点がそこにあります。



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