機関紙10号(2006年2月8日発行)


もくじ
天高く、九条連凧が揚がる
マスコミ九条の会が都内で討論集会
「九条の会」全国で4000を超す
桂教授(立正大学)の新春メッセージ
憲法とわたし 10 その1
「沖縄は基地を拒絶する」を読んで
戦争と所沢 その5

天高く、九条連凧が揚がる

連凧って素晴らしい

 子どもの頃に誰でも一度は揚げたことのある「凧揚げ」をしようと、「マスコミ・文化九条の会所沢」は、29日の日曜日、「九条連凧を揚げる集い」を航空公園で行いました。子どもたちと一緒に、連凧を作り、憲法九条を守り、戦争をする国にさせないための願いを連凧に託し、大空高く揚げようと、会員・市民ら40人が、航空公園に集いました。前週には、市民会館で、200個の連凧を作り上げ、用意周到に本番に臨みましたが、あいにくの好天微風。それでも、ときおり吹き付ける強風を捕まえ、昇竜のように、4本の「連凧」が公園上空に舞った姿は圧巻でした。

 会長の勝木さんは「今年初めてのイベントです。憲法を変えて、戦争をできる国にするために、国民投票の手続きさえ、簡単にしようとの企てがされていますが、この動き.を阻止したいものです。大勢の市民と出会える場で、平和への願いを込めた連凧を揚げるのは意義のあることです。この歳で風を揚げるとは思わなかったが、子どもの頃は和風をいつも揚げていた。九条の会だから、九個かと思ったが、200個とは驚いた。こういう企画をこれからも.やりたい」と、笑いを誘いながら挨拶。連凧作りを指導したサ一クル・薬学舎の原さんは、「連風を揚げたいと思いつきで発言したものが、やっと実現しましたが、天候には恵まれすぎました。5月頃、もう一度揚げたい」と、再挑戦を誓いました。会員の弾くフォーク・ギターに合わせて、歌声の輪も生まれました。老いたる者も少年に返り、凧の糸を引き、「九条は守りきる」を誓った一日でした。

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マスコミ九条の会が都内で討論集会

 「九条・国民投票法・マスコミ報道とことん討論!」と題して、マスコミ九条の会の討論集会が、28日、中央区月島で開かれた。コーディネーターには、当機関紙でおなじみの桂敬一・立正大学教授、基調報告に原寿雄(ジャーナリスト)氏、岩崎貞明(放送レポート編集長)氏、梅田正己(日本ジャーナリスト会議出版部会代表)氏の3人。

満州事変前夜と同じ状況

 ジャーナリストの原寿雄さんは、「1931年に満州事変が始まり、終戦まで、十五年戦争に入っていきます。なぜ、そこに触れるのかと言うと、いまの日本がそこに近づいているからです。満州事変まで、軍部を批判していた朝日新聞が、満州事変を契機に足並みを揃えたのです。マスコミの歴史の中では、屈辱的な年でした。

 問題になっている自民党憲法草案は、公明党だけでなく、野党の民主党とも『話が付く』、現実性を優先的に考えている案です。妥協しやすい案になっています。『自民党は一人で勝手に進めるのではないですよ、民主党も一緒ですよ』と、言っているのです。

 改憲まで、何年かかるのか、いろいろありますが、その間に、日本の意志に関わらず、まんがいちに米国が動き出すことがあれば、改憲していないから、戦争に荷担しないということではなく、いつでも解釈改憲できるから、その方が良いという、自民党の意図を見ておく必要があります。いっそう、3党で妥協する方向が、強まることになりそうです。

 国民投票法も、この国会中に、通してしまいたいというのが、自民党の狙いでしょう。しかし、九条について言えば、改憲に反対の方がまだ多い。依然として、改憲に反対する世論に根強いものがあります。年金など社会保障のことが先だとの声が圧倒的です。世論と政党の思惑とは一致はしていません。

 4000を超える『九条の会』の結成は、やはり高く評価すべきことです」と結び、戦前と、違うところは、「こうした集会など言論・表現の自由が憲法で保障されていることです。改憲されれば、すべてを失うことになります。東京で新聞を読むと、改憲派の記事が多いが、総体では、全国の六割の新聞杜が護憲か慎重派の論調を掲げています。そこに、確信をもっと持つべきです。いまは、一人一人の生き方が問われている時代です」と語りました。

 岩崎さんは、放送業界、梅田さんは沖縄の基地問題を中心に発言しました。

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「九条の会」全国で4000を超す

 「九条の会」事務局によると、地域・分野別の結成状況は、1月上旬現在、全国で4079。大阪府の352をトップに東京都、北海道、京都府が続き、埼玉県は122と全国12番目。京都府では網の目のように「会」が誕生し、市内の「会」の数は小学校区を上回る地域が増えている。東京都では、官庁や大企業本社が集中する千代田区で職場の「会」結成が進んでいるという。

 ご当地、所沢でも、こぶし町で「会」が結成されたほか、さいたま市周辺で、機関紙や広報、ニュースなど宣伝物の作成に携わっている人がよびかけ人になり、「草の根メディア九条の会」や県高校・障害児学校職員の「九条の会」も立ち上がっています。

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桂教授(立正大学)の新春メッセージ

「九条を守る」意味を広げていこう

 自民党が結党50年を機に、「新憲法案」を発表した。「自衛軍」を保持、これを集団的自衛権発動のもとに戦力として用い、武力による国際貢献・国際協力の行動にも参加させる、という制度的な筋書きが用意されたわけだ。集団的自衛権とか国際貢献・協力というと聞こえはいいが、実体は、米軍の国際軍事行動との一体化が、日米同盟強化の方針のもとで目論まれているだけだ。

 こういう憲法改悪、というより現行の平和憲法廃絶への動きは、おそらく向こう2、3年のうちに政治的山場を迎える。私たちの九条を守るたたかいは、そのとき総力を発揮すればよく、それまでは雌伏に耐えていけばよいのだろうか。

現実に馴れてはならない

 12月9日、東京高裁は、立川の防衛庁官舎ビラ配布事件に対して、東京地裁の無罪判決を覆し、有罪の判決を下した。地裁判決が、このケースにおける居住者の迷惑感や拒否感は、守られるべき表現の自由の前では、受認されてしかるべき程度のものだ、と判断したのを、完全に逆転させたわけだ。その背景には、裁判官の姿勢の反動化の進展--反戦市民運動に対する敵視の増大もあろうが、むしろ、「9・11総選挙」小泉自民党圧勝以後、一般市民のあいだにさらに深まるようになっている政治的閉塞感や無関心、得体の知れない犯罪の頻発に伴って生まれるようになった社会不安や本能的な自己防衛の心理の蔓延に、裁判官が悪のりし、そうした社会的風潮や心理に迎合したところがあるのではないかと、思われてならない。表現の自由より市民に対する迷惑の防止のほうが大事だ、とするわけだ。国は、市民が迷惑を感ずることは防いてやる、弱い市民を守ってやる、と振る舞うのだ。

 こんなインチキには、マスコミが毅然として立ち上がり、本来の役割を果たし、表現の自由の確保こそ、市民の自由と権利を守る基礎だと、市民に訴えていかねばならないはずだ。だが、実際には、この高裁判決で社説を掲げた全国紙は、朝日一紙(「表現の自由が心配だ」)だったのが現実だ。地方紙は多数の新聞が社説を掲出したが、大新聞の現実追認、いま現前化している政治的危機に対する鈍感さは、おそるべきものがある。

 こういう現実に、私たちはただ馴れていってしまうだけならば、九条擁護のいざ決戦という山場がきても、もうたたかうことはできない。九条を頂点とするたたかいの広い裾野のなかで、いますでにたくさんの問題が出現している。その一つ一つに対して精力的に取り組み、そのなかでマスコミのあり方、役割を検討していくことが私たちに課せられているのだという実感を、新しい年を迎えて、強めている。

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憲法とわたし 10 その1

鈴木和翁(中新井在住)

忘れられない思い出 1

 日本が負けたのを知ったのは、放送のあった八月十五日の十二時半を少し回ったころで、ひどく蒸し暑く、息苦しいほどだったのをよく覚えている。私はそのころ小児結核を患っていて、安静を保つよう言われていたので、その知らせは寝床の中で聞いた。小学校五年生、十一歳のときである。

 そのとき私たち家族五人が住んでいたところは、ピョンヤンの真東で、日本海側に面した川内里(センダイリ)という田舎町である。「日本製鋼所」という大きな軍需工場が駅のすぐ前にあって、父はその工場の守衛長の仕事を、母は独身寮の寮母をしていた。

 日本が負けたことを一番喜んだのは母である。予科練に兄が行っていて、特攻隊で戦死するという一番の心配事がなくなって生き生きしていた。逆に、父は一回り小さくなった感じで、悄然としているのが目立った。

 敗戦の翌日から、会社も学校も休みになった。寮生も身内のない者以外は帰郷するということで閉鎖され、周りが急に淋しくなっていった。私たちのほうは、銀行閉鎖で預金が封鎖されてしまい、これからどう生活するのか、今後どうなっていくのか、周りの状況も分からないまま、不安な毎日が過ぎていった。

解放祝賀パレード

 変化が現れはじめたのは敗戦後五日目ぐらいからである。急にドラや太鼓が鳴りだし、大勢の人が表に繰り出して、お祭りのような騒ぎがはじまった。解放祝賀パレードのはじまりであった。数百人の群衆が道路にあふれ、指導者らしき者が、アジ演説やシュブレヒコールの音頭を取り、女たちが先頭に立って踊り、旗やのぼりが続きシュプレヒコールに唱和していた。デモ隊は辻々を練り歩き、暗くなっても延々と続いた。

 デモは翌日も続いたが、次第に暴走しはじめ、幾つかの集団が家々を襲い、何人かがリンチで殺害されるという形で終わった。その標的にされたのは朝鮮人警察官、日本人と通じてあこぎに稼いだと見られた商人などであった。その中に日本人が含まれていなかったのは、警察署長をはじめ、お偉いさんたちは、いち早く逃亡して、藻抜けの殻になっていたからである。

母が留置場へ

 母が保安隊から突然の呼び出しを受け、留置場に入れられたのは、その解放祝賀パレード事件の翌日か翌々日のことであった。寮生にたいする配給食糧をネコババしたのではという容疑であった。母はそれから二日間、「認めろ、白状しろ」と背中をゴム製の鞭で打たれ続けるという拷問を受けた「特高の拷問で何百、何千もの同志が殺された。36年間朝鮮人民の膏血を啜り続けた恨み」などと言って殴られたという。結局、母はその後は何の取り調べもなく、二十日ほど後に帰ってきた。痩せて、半分ぐらいに細くなってはいたが、大丈夫、大丈夫と言いながら、三人の子供を固く抱き締めてくれた。私たちはおいおいと大きな声で思いきり泣いた。母の背中全体と腰にかけて、真っ黒に残った痣の手当てが、二人の姉たちのしぱらくの間の仕事になった。

日本人収容住宅

 9月に入って「日本人は1カ所に集められ、引き揚げの準備に入るらしい」という噂が流れてきた。それから数日後、保安隊から、「24時間以内にここを立ち退いて指定する社宅に移動する。持ち物は一人リックサックは一個。それ以外は持ち出してはならない」という命令が出された。私たちは、大急ぎで荷物をそれぞれのリュックにぎゅうぎゅうに詰め、炊事道具や掃除道具など、持てる限りを手にして、指定の場所に集合した。

 引っ越し先は六畳二間続きの手狭な家屋で、それが長屋になっている工員の社宅であった。しかも一軒に2家族が住むのだという。六畳一間に5人、台所と便所は共同。どう考えても狭すぎるのだが、今は非常事態、間もなく日本への引き揚げがはじまる。しばらくの辛抱。我慢、我慢ということでここでの生活がはじまった。そのときは、武装保安隊の監視の下で、「指定された区域から許可なく出てはならない。食料品などの買い物は当番制で共同購入とする」など、収容所まがいの生活が、これから八ヶ月も続くと予測する者はだれもいなかった。長く続く不自由な集団生活の中で、男たちはまずます無気力ななり、女たちはささいなことでいさかいをくり返し、子供たちはあの日から学校に通うこともなく、次第に悪ガキに変わっていった。(次号に続く)

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「沖縄は基地を拒絶する」(高文研利)を読んで

林 順子 (会員・荒幡在住)

 かつて目にしたものや耳にしたものがまったく散り散りばらばらな思い出と体験であったにもかかわらずある目突然、一本の糸に繋がるときがある。

 私は以前、「辺野古」という漢字が読めなかった。1977(昭和52)年8月、ときおり立泳ぎをしながら水槽をゆったりと泳ぐ3メートル近い大きな哺乳類を鳥羽水族館で生まれてはじめて見た。子供のころ、親戚のおばが、下半身が魚の姿をした不思議な少女の絵付けした《蝋燭》が、海の嵐や大波から人々や船を護ったという心意かれる童話を聞かせてくれた。

 昨年8月15日終戦の日、私は日高六郎さんの講演を初めて拝聴し、そして驚樗する。それは、彼の思考の礎は、私がつねづね高文研代表の梅田正己さんのお考えに感じていた《宝物のような想い》と同じだったという偶然だ。高文研2005年冬号ジュパンスのコラムに梅田さんの「理性の衰弱死を怖れる」がある。「沖縄は基地を拒絶する」を昨年12月中旬に緊急出版された梅田さんの真の理由の原点となる、とても平易に説かれた、しかしおそろしく心に響く6行が辺野古サンゴ礁と大浦湾とL字型のキャンプ・シュワブ沿岸部海兵隊新航空基地建設予定写真とともに掲載されている。

 昨年暮れのJCJ(日本ジャーナリスト会議)12・8集会、現場沖縄からの報告を初めて聴いた折、私には難しい用語が多い中で確実に理解できたひとことがある。「他人の家に無断で入って勝手に便所はどこに作るだの、やれ玄関はどっちに作るだのと言っているようなものだ」という表現が耳をとおった瞬間、梅田さんが心から助けたいもの、どうしても護りたいものが一瞬にして私の心臓と脳味噌を揺さぶった。

 梅田さんは知っている。
 抗うこともなく埋め立てられ、死んでいくおびただしいクマノミの死骸の上に海上基地が成り立つことを。それに因ってジュゴンの生命を育む海底の海藻が太陽光を遮られ、一瞬にして活力を失うことを。私には体長10センチのクマノミ一匹の持つ命の重さと、細やかな情愛を持つジュゴンの表情を知っている彼だけに「沖縄人の心と怒り」を集めた本を作ることが許されるのだと思えてならない。新春、沖縄出身のジャーナリスト・近田洋一さんから辺野古のスケッチが届いた。「辺野古」という漢字が読めなかった私に今、辺野古の風景と風が届く。遠い昔の童話は小川未明の「赤い蝋燭と人魚」であり、それは鳥羽水族館のジュゴンであり、それは沖縄ではザンである。梅田さんのご本に出会わなければ私は《自分の記億に隠されていた沖縄》に気づくことはなかった。梅田さんの沖縄への切ない想いはまさに日高六郎さん講演の「消えていこうとしている憲法九条を憂えること」そのものを指す。『歴史に苦しまされている沖縄に対しての私たち日本人に欠如している怒りと憂慮』を梅田さんと日高六郎さんとクマノミとジュゴンが黙って見ている。

 梅田さんのご本は、真の蜂火である。33名の執筆者が伝える沖縄人の思いは、尊い。

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戦争と所沢 その5

石田道男 (所沢労音会長)

終戦時、所沢飛行場に78機の航空機

 ここで、所沢の敗戦と占領直後の事実について、いくつか追加しておきたい。昭和20(1945)年8月31日現在の「日本陸軍各飛行場における終戦時の保有機種・概数」について記録がある。この中で埼玉県内飛行場についてふれると、

 所沢飛行場 隼 26、キー○二乙 1、九十七重 1、百式司偵     1、九九軍偵 5、九八直協 8、九五高練 5、四式練 2、輸送機 8、不明 1 合計 78 
 高萩飛行場(現日高市) 隼 14、疾風 92、剣3、九九軍偵 4、九八直協 1、九五練 11、九九高練 2、輸送機 2、三式指連 1 合計129 

 豊岡飛行場(現入闇市) 九七軽 11、飛龍 2、九五練 1、九九高練 29、一式双練 5、四式練 27 合計 75

 児玉飛行場 飛龍 16、九七重 3、百式司偵 12、九八直協   3、一式双練 20 合計 54

 熊谷飛行場 隼 22、飛龍 1、呑龍 14、九七重 4、九七軍偵 3、九八直協 19、九五練 38、九九高練 3、一式双練 8、四式練 4、キ一○七 4 不明 2 合計 122

 熊谷南飛行場 隼 1、百式司偵 2、九八直協 1、九五練 14、一式双練 4 合計 22

 これは、所沢から県内だけを見たものだが、日本陸軍としての航空機は内地に5,710機、外地に1,111機、終戦時にあったという。また、ついでに日本海軍の終戦時の航空機数は、内地7,104機、外地691機であった。

 所沢飛行場の面積は、110万坪(365ヘクタール)。滑走路は、幅60メートル、長さ1,500メートル。爆風から航空機を守るための掩体壕(えんたいごう)は、土塁大型機用39基、小型機用69基、鉄筋コンクリート有蓋小型機用25基があった。私も土塁を作った。飛行場西側に長大な有線通信の壕があった。昭和20(1945)年5月の記録によると、航空燃料40万リットル、自動車燃料6000リットル、機関砲弾14万発、80キログラム爆弾30、100キログラム爆弾150などが集積されていた。兵員の最大は3,150名であったという。

すべて、進駐軍が破壊処分

 これらの航空機及び兵器は、昭和20(1945)年9月以降、進駐した米軍によって、すべて破壊処分された。私たち少年グループで、飛行機の風防ガラスや落下傘の布生地、航空服やマフラーなど、こっそり持ち出した者もいた。軍の衣料や燃料の一部は、近隣の農家の林の中に上級軍人が持ち出していた。これらは、その後、隠匿物物資の摘発市民運動によって、摘発された。

終戦趣旨説明の特使も所沢飛行場から

 終戦、昭和20(1945)年8月15目前後の所沢陸軍飛行場での、いくつかの事実に触れたい。

1.近衛文麿特使をソ連に派遣し、和平交渉の仲介を求める計画(これはソ連によって拒否された)。その輸送機として、所沢飛行場に四式重爆撃機「飛龍」が、8月7日、操縦士と共に待機していた記録がある。
2.広島への大本営による調査団(理化学研究所・仁科芳雄博士、参謀本部・有末精三中将ほか6人)が、8月8日正午出発したのも所沢飛行場であった。同機は米子経由で夕方に広島人り。
3.前線の陸海軍部隊に、終戦趣旨を徹底するため、皇族、大本営参議(閉院宮有仁王ほか陸海軍参謀)が、8月18日午前9時、所沢から出発した。上海〜広東〜ツーラン〜サイゴン〜シンガポール〜サイゴン〜南京を経て、8月24日午後5時、所沢に帰ってきた。
4.日本国内での飛行が許されたのは、8月24日までであった。それぞれの所属部隊、所属機をはじめ、すべての航空機は、所沢で、その最後の飛行を終えた。ちなみに、世界一周で名声を馳せた毎日新聞「ニッポン号」の生涯も、ここで終わった。このように、昭和20(1945)年8月15日を中心とする敗戦処理と連合軍の占領は、米軍の進駐によって、所沢でも始められた。


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