コーヒーブレイク2



もくじ

黒部湖

頚動脈エコー

やれやれ、おつかれさま!

10万人集会

雑草の花ざかり

猟 犬

急性花粉症

白い世界、黄色い世界

初 夢

星の王子様

下町散策

プラスαの山登り

図書館サービス

古楽器

「戦争」の訓練

「奪うというのか!」

ふるさと 





黒部湖


 「平ノ渡し」に乗る機会を得た。この渡し舟は、あの『黒部の太陽』でおなじみの黒四ダムが水没させた登山道の代替補償として、関西電力が無償で行っている。黒部湖の南端に近い平ノ渡し場から対岸の平ノ小屋の間までがコースで、乗船時間は10分とかからない。便は一応時刻表もあって1日になん往復かするが、その時間に山から下りて船着場で待つ人がいるかどうかを平ノ小屋から望遠鏡で確認し、いなければ船は出さない。機関士は平ノ小屋のオーナーである。

 この山小屋では岩魚が夕食のお膳に上がるので有名だ。小屋の前に小さな池があり、冷たい水の中に数匹の岩魚が泳いでいた。お客があれば今晩のおかずにされるのだろう。「魚霊碑」と刻まれた小さな石碑とやはり小ぶりな、観音像だろうか、が立っていた。

 岩魚は黒部湖でけっこう釣れたが、最近は水温が上がって大型の魚は獲れず、近くの渓流まで行くことが多くなったという。岩魚の産卵期の今は味が落ちる。その代わりは虹鱒だ。なんと渡船のときには機関室から釣竿がひょいと出る。赤いウキが流され、リールから糸がぐんぐんと繰り出された。アタリだ。竿がしなる。さあ、こうなると待ち人を待たせて釣りに専念。引き揚げた虹鱒は30センチほどだった。オーナーはその場でリリースして、船を岸へ向けた。

 この黒部湖、今年は夏場の電力供給のために水位が日に日に下がり、湖岸の白茶色の地肌はむき出し。遊覧船も水深の深いところだけを運航している。そのくせ、毎秒10トンの“観光放水”は止めない。

 黒部ダムが出来たのは1963年。湖岸は激しい風化の様相を見せているし、湖の中には温泉が湧き出して硫黄色の水が輪を描いている。ダムサイトから立山の下をトンネルで抜けた室道平の地獄谷は、このところ硫黄の噴出が激しく、遊歩道は立ち入り禁止。

 なんだか、怪しい。
(M・O)



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頚動脈エコー


 高脂血症の治療を続けている。といっても、1日1錠の薬と、2ヶ月に一度の診察だけ。時々血液を取ってコレステロールの数値を確認するのだが、薬を飲まなければ必ず上がっている。それは親譲りということに落ち着き、だから、2ヵ月ごとの追跡調査をしているが、この間になにか異常を自覚すると、やはり脳梗塞に結びついて不安になる。

 先日、頚動脈のエコー検診を受けた。ベッドに仰向けに寝て、「ちょっと顎をあげて少しだけ右に」または「左に」という具合で15分ほど。血管の中の画像は実に鮮明だ。一箇所、肩から首への曲がり角のところで波線状にうっすらと白く見えたのがコレステロールということだった。でも「曲がり角でこれくらいなら問題はありません、全体に血管内はきれいです」と言われた。

 この頚動脈エコー検査は、動脈硬化の発見に一番の近道とか。今、日本では、3人に1人は虚血性脳血管障害や心筋梗塞などの動脈硬化性疾患で命を落としているそうだ。

 2008年からメタボ検診という特定検診が行われている。メタボ検診の目指すゴールは動脈硬化予防で、厚生労働省はこの検診で将来、2兆円の医療費が削減できるとしている。この見方を甘いと言っているのは血管外科医の市来正隆氏(JR仙台病院院長)だ。動脈硬化の予防をするのであれば、自分で見れば理解できる自分の腹囲を測ってもらって保健指導を受けるより、血管を観察したほうが手っ取り早く危険因子を見つけられる、と頚動脈エコー検査を薦めている。

 メタボのチェックは誰でもメジャーでできるが、エコーとなると専門家が必要になる。公的検診に組み入れて、おなか周りの太さ同様に自分の目で定期的に血管の現状を見られるのは、健康に対する実に大きな安心材料だ。
(M・O)



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やれやれ、おつかれさま!


 地元に住民手作りのコンサートがある。「地域コミュニティ」をキーワードに、微力ながらいわゆる地域おこしの一端を担おうという目的を持つ。1年に2回、冬は和風の趣で新春を寿ぎ、夏は洋物で暑気払いにでもなれば、というところだろうか。この夏で11回を迎えた。スタッフは5年、がんばってきたことになる。そのがんばりにもかかわらず、観客は少ない。かく言う私も知人がスタッフの中心人物なので、とりあえず観に行っていたというのが正直なところだった。それが、今回は出演者として参加することになった。

 二十歳の頃に少し触れたフルートを、中年になって再び吹いてみたいと思うようになった。大きな期待を持って、神妙な気持ちでレッスンに通った。が、まだ現役という身には帰宅後の練習時間を工面するのは結構、困難である。先生は吹かせてあげたいと十二分の気持ちで教えてくれるのだが、それに応えられないのが辛かった。申し訳ない気持ちが先立って、レッスンは2年で終えることになった。

 仕事を辞めて時間が出来ると、いざ、昔取った杵やら柄やらを磨こうと思ったが、・・・遅すぎた。からだはリズムを踏めず、指はすばやく動かず、目は譜面を追えず、呼吸は途切れ途切れ。それでも仲間を作って楽しんできた。そこへ今回の話。

 2ヶ月ほど練習を重ね、映画「サウンド オブ ミュージック」から5曲を仲間と一緒に演奏した。たった15分でも舞台に立つのは予想外の緊張。練習では難無く出せた高音が出ない! クライマックスだというのに! あと4拍、どうしよう! そこにハンドベルの優しい音色が響いた。おお、天の救いか。

 客席に向かって深々とお辞儀をしたら、とたんに喪失感に襲われた。
(M・O)



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10万人集会


 私は昭和20年の秋に生まれた。だから「新憲法の申し子」として今日まで平和の中で生きてくることが出来た。

 身近で起きた砂川事件も子ども時代だったため、大人たちの話題としてのみ受け止めていた。日本中をゆるがせた六〇年安保は中学3年生のとき。父親がデモに参加していたので、受け止め方はもう少し現実味を帯びていただろうか。ずっと中継されている現場をテレビで見ていた真夜中、「女の子が死んだようだ」と疲れきった父が帰ってきた。なぜ平和を掲げた日本で、平和を求める人々が国によって取り締まられるのだろうと、疑問に感じて父に聞いた。

 「平和というものは、いつも力ずくで守るものなんだよ」

 その答えはずっと頭の中にあったが、その後の私といえば、署名やカンパなどには応じたものの、「力ずく」の一線には出なかった。

 いま、ツイッターの若者たちが反原発の声を挙げ、再稼動を決めた野田総理に物申す、と動いているという。そんなときに7月16日に代々木公園で催される「さようなら原発10万人集会」のチラシを手にした。

 呼びかけには「思いを目に見える形で表現しなければ、原発を護持・存続させようとする暴力に勝つことは出来ません」とあった。そうか、ここで10万人の声を一つにすることが出来れば、実に強力なパンチとなるに違いない。このまま、人任せで平和を享受し続けていたら、それこそ三途の川で閻魔様に申し開きも出来やしない。子や孫の時代に汚染や危険を残して、白々とこの世を去るつもりか、と思い立った。

 平和憲法の申し子の皆さん! 遅蒔きながら、力ずくで平和を守ってくれた先輩の後に続いて、自らのにぎり拳を突き上げに行こうではありませんか。
(M・O)



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雑草の花ざかり


 一日中降り続いた雨に足止めをされた翌日は、上天気になった。明るい日差しは心地よい風もあって暑過ぎず、これは散歩をしてきなさいということかと、久しぶりに狭山湖まで歩いた。家から15分ほど、雑木林の中の山道を行くと狭山湖である。いつもは手ぶらで歩くのだが、今日は山をじっくり見ようと、双眼鏡を持って出た。

 山道に入ってすぐに甘い香に気づいた。お墓の横の藪を覆うようにスイカズラの蔓が延びている。二つずつ仲良く並んだ花がいくつか咲いていて、香はそこから漂ってきていた。ゴルフ練習場の前で曲がると別の花の香りがした。足元に白い花がぽたぽたと落ちていたので見上げるとエゴの木は花盛りだ。

 堤防には今日も歩く人、走る人、自転車の人、そしてお弁当を広げた女性陣と、それぞれ楽しんでいる。ちょうど雑草の花も盛りの季節で、かわいい花がたくさん咲いていた。中には庭の花であろうニワゼキショウ(庭石菖)が、白青紫と三色の星を草原にばら撒いていたりもする。アカツメクサやシロツメクサ、アメリカフウロ、そして誰が命名したのかと思うようなアカバナユウゲショウ(赤花夕化粧)の花の中に真っ黒な豆をつけている草があった。カラスノエンドウである。すでに堅くなっているその真っ黒なサヤを開いてみたら、ずらりと並んだ緑がかった灰色の丸い豆がまるで正露丸のようだったので思わず笑ってしまった。笑ってから正露丸を知っている人が何人いるのだろうと思った。

 期待していた山々は白い雲があって富士山さえ見えない。雲の中を双眼鏡で探したけれど、やはり山の姿は見えなかった。ぐるりと後ろを向いて都心のほうを覗いてみた。真ん中に、細身の体でひときわ天の高いところを指差して伸びている塔があった。お、スカイツリーだ!
(M・O)



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猟 犬


 五日市の低い山の中で、真っ黒な大型犬に出逢った。見るからに猟犬というスタイルである。「探偵」という業種のポスターで真っ黒な犬を見た人もあると思うが、あれとそっくりだった。

 犬はハイカーの誰彼かまわずにまとわりつき、背丈が同じくらいの小さな子どもは顔をべろべろと舐められて恐怖で大泣きをしていた。太い尾をしきりに振っているのは嬉しいからだろうが、往復ビンタを食らったように痛い。空腹なのか主人の匂いを探しているのか、せかせかと置いてある荷物に鼻を突っ込んではひっくり返す。実に落ち着きがない。

 赤い首輪に30センチほどのちぎれたクサリがぶらさがっていた。首輪にはアンテナが取り付けられている。GOとマジックで書いてあるのは名前か? 090と携帯電話のナンバーらしい数字が彫られたプレートも付いていた。10人くらいのクループで来ていたハイカーがどうやら携帯電話で飼い主と連絡を取れたようで、連れて下りてくれた。

 野生は失われてしまったのだろうか。ひたすら主人からの指示を待っていたのだろうか。お荷物なアンテナを立てているのに電池切れで自分がどこにいるのかさえ分からない猟犬なんて、恥ずかしくないのか。犬もさることながら飼い主は何を考えているのだ。

 なんだか場違いな出来事に、『注文の多い料理店』を思い出した。
「実にぼくは二千四百円の損害だ」
「そいじゃ、これで切り上げよう。なあに戻りに、昨日の宿屋で、山鳥を十円も買って帰ればいい」
・・・という具合に、あの犬は電池切れで迷子になったまま置いてきぼりを食ったのだろうか。それにしても、精悍そうな外見に似合わずお人好し(いや、お犬好か?)だった。
(M・O)



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急性花粉症


 今日の明日で急な話だけれど…と、二子山から武川岳への山行に誘われた。確かに急な話だ。しかしどうやら天気はよさそうでこの機を逃す手はあるまい。足慣らしの山としてはハードだなあと心細いものの、いよいよシーズン到来という嬉しい気分が勝る。

 西武池袋線のあしがくぼ駅から、道標に導かれて線路の下をくぐると登山道が始まる。沢沿いの静かな道はだんだんと山らしくなり、何度かそれらしいピークに騙されながらもまずは目出度く二子山の雌岳に着いた。そこから10分で雄岳だ。狭い尾根道が焼山に続く。木の間隠れに見えていた縞模様のピラミッド、武甲山の全容が目の前に現れた。凄い。よくも削りに削ったものだ。だいたい掘削機をどのようにしてあんな山の天辺にまで持って行くのだろう。やがてこの時期独特の残雪の道となる。この雰囲気がなんとも良いのだ。とうとう武川岳山頂、1051.7m。いやあ、よく登った。

 さて、下山は名栗へ抜ける。天狗岩という所で驚いた。それこそ、天狗でもなければここにこんな岩を積み上げることはできないだろうと思える断崖は、累々と重なる石灰岩だ。山の一部にぽかっと開けた平地が見えた。どうやらこの山も掘削されているようだ。

 突然、くしゃみと鼻水が止まらなくなった。持ってきた2個のティッシュがなくなった。天狗岩を下ってから杉の植林帯を歩き続けている。今日は気温が上がった。これは「よもや」の花粉症に違いない。この歳まで持ちこたえたのについに花粉症かと暗澹たる思いだったが、帰宅後に症状はない。急性の花粉症ってあるのだろうか? 願わくはこのまま収まってほしいのだが。
(M・O)



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白い世界、黄色い世界


 とうとう白内障の手術をすることにした。笑われるかもしれないが、決断するまでに1年かかった。もちろん、怖いからである。

 なんと言っても母の一言が決定的だった。母は父を亡くしてからずっと一人暮らしを続けていたし、親不孝者の息子たちに知らせるまでもないと思ったか、いつ手術をしたのか知らなかった。そのことを知らされたときに、うふふふと笑って「目に刺す麻酔の注射針が見えるんだよ」といっていた。それ以来、怖気づいていたのだ。

 この1年で本当に目の具合が悪くなり、早くさっぱりしたいと思ったのと、もうまな板の上はしようがないと気持ちの整理が付いたことで、さてどこの病院がいいのだろうとアンテナを張った。病院選びは口コミがかなり有力という。

 翌日の検診までは眼帯をしている片目と眼鏡をかけない近視の片目で不便もあったが、1日で両目を使えるようになる。すると不思議な世界が出現した。治した目で見る世界は白く清潔そうで、まだ旧いままの目で見る世界は黄色くうす汚れているのだ。

 昔話にあったような気がする。目の不自由な人が神様にお願いをして直してもらったのは良かったが、期待した目に見えた世界は不幸な世界だったと。いやはや、どうも同じような気がしてきた。

 冗談はさておき、この眼科では手術日とその後の通院に必要な1週間、送迎車を出してくれる。術後、特に注意が必要なのは細菌による感染症だそうだ。バスや電車を乗り継いで多くの人と接触しながら通院しなければならない私には、とてもありがたいシステムだった。
(M・O)



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初 夢


 正月の3が日は離れている家族が顔をそろえる。といっても3人しかいない我が家では、いささか盛り上がりに欠ける。それでもお酒を飲みながら前年の出来事やら今年の予定やら、とりわけ現役の娘の話にはいつも笑わせてもらう。

 そのうち、家内が年末にいやな夢を見たと話をはじめた。寂しいことに、夢にまで出てきたのは「資金繰り」で、自分の口座の暗証番号がなんとしても思い出せなかったそうだ。たしか結婚記念日だったと年月を手繰ったもののそれが分からない。いくつも数字を並べ替えてみたがどれも違う。娘の誕生が2年後だからとそこに手がかりを求めたが、それも分からない。完全に私はボケてしまったのだと慄然としつつも、そろそろ娘の結婚を真剣に考えなければ、と目的がずれていったとか。
「もう、よけいなお世話だよー。初夢じゃなくて良かったね」と娘。
「で、暗証番号は分かったの?」と私。本当に分からないままだったらどうしようかと思ったのだ。

 一般的に男は夢を見ないものだろうか、私はあまり夢を見た記憶がない。しかも3が日はあちこちと出かけるので、家に戻って食事が済めばお風呂に浸かって熟睡となる。初夢を見る余裕もないのだ。

 松が取れたので年賀状の整理を始めた。毎年、毛筆で書いてくれる人がある。のびのびと紙幅いっぱいに書かれた何気ないひとことが、実にセンスよい。それを額に入れてみた。自慢じゃないが、こちらは小学生のときからの悪筆がいまだに健在だ。いつも母親に嘆かれたものだ。

 「なんだ、筆を使ったら俺でもこんなにうまい字が書けるじゃないか。ほら、ご覧の通り。」 翌朝目覚めたときに、書初めの半紙を見せて誇らしげな自分がいた。たった数秒間のワン・カット一一 これが、初夢だった。
(M・O)



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星の王子様


 用事を終えて関越道を戻ってきた。お昼時になって、どこかで食事をと思ったが、何せ12月の道路は混む。気を利かせて上里のサービスエリアをやり過ごし、寄居のパーキングエリアに入った。「やや、これはなんだ! ここは何処だ!」、車を止めて目を疑った。

 目の前にはうっすらとピンクがかった色合いの、陶器でできたドール・ハウスのような建物があった。建物を囲んで、なにやらお伽噺のような風景が創られている。とりあえず何物かを確かめなければならないと車から出た。全体はごく小規模で、カフェとレストラン、それにお土産品を売る店などが並んでいる。マガザン何々という看板の下では窓が開いていて、お兄さんが鯛焼き風のお菓子を作りながら「ウワバミ焼きはいかがですか?」と声をかけてきた。

 「え、ウナギ? ウワバミ? なにそれ」と見ればそこに案内板があって、かの有名な「星の王子様」の帽子の絵、そう、うわばみが象を“こなしている”あの絵が描かれていた。「ああ、Le Petit Prince のあれね・・・」。で、よく見るとあちこちにフランス語で書かれた看板(フランス語しかない!)が架かっている。

 高速道路のPAはSAと違って、利用するのは殆どがトラックか仕事で出かけた車ではないか。彼らドライバーが一息入れるのにこのフランス語のあふれるお伽噺の世界か?と、違和感を覚えた私は早々に立ち去って嵐山に向かった。

 帰宅して寄居のPAのホームページを見た。なんと、日本で初のテーマ・パーク型パーキング・エリアとして「星の王子様」で打って出たらしい。経営者は「ドライブの緊張から解放し、癒しと安らぎを提供したい」「通り過ぎるPAではなく目的地のPAとしたい」と言っているが、はたして・・・う〜ん・・・なんとも・・・。
(M・O)



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下町散策


 谷中という町に初めて行った。東京育ちのくせにどの辺りが谷中なのか、土地感すらない。ビールの友として“谷中生姜”、それに“霊園”は知っていたが…。気まぐれをおこした仲間4人、ちょっと下町情緒に触れてみようとぶらりと出かけることになった。

 JRの日暮里駅から歩き出してまず、竹細工屋さんで繊細な技に見とれた。その先の経王寺の山門で彰義隊の戦いの弾痕を見てから「夕焼けだんだん」を下りる。そこは谷中銀座。すぐに通り抜けてしまうほどの距離ながら、70軒ほどの小さな店舗が立ち並ぶ。惣菜屋、魚屋、肉屋、八百屋等々、いずれも日常生活に必要なお店だ。下駄屋さんに一本歯の下駄があったけれど誰が履くのだろう。

 通り抜けて「よみせ通り」に出たら、レトロな循環バス「めぐりん」が来た。角に「指人形笑吉工房」の幟がある。どんなものかと覗きに行ったのは大正解。私たちだけをお客に30分ほどで7〜8本のコントを上演、もう笑いっぱなし。

 三崎坂の谷中小学校の反対側に双子のような屋根を持つ寺があった。大円寺である。入母屋の屋根を二分して、千鳥破風とさらにその下に合掌部分が丸い形の軒唐破風の屋根が左右対称に並んでいる。正面から見ると山車を二つ並べたような感じだ。明治の神仏分離令が出される以前には境内に神社を持つお寺は珍しくなかったが、実はこの左側が寺の本堂、右側は急遽阿弥陀如来を代役としてお寺を装った神社だったそうだ。今では年末には左側のお寺を、年始には右側の神社をお参りするという。この大円寺には錦絵で有名な「笠森お仙」と「鈴木春信」の碑がある。

 私たちに以上のような話をしてくれた中高年の男性は、次に若い外国人のグループを見かけると歴史から何から、立て板に水のごとき英語で説明をしていたのには驚いた。

 谷中は寺の町だ。林立する寺は今、町に貴重な空を確保している。住人たちは古い町並みや建物を利用して新しい下町を創造しているようだった。
(M・O)



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プラスαの山登り


 この夏は八ヶ岳づいていた。7月、8月、9月と3回も足を運ぶことになったが、そこは主峰赤岳を中心とするエリアではなく、しかも登頂が目的という山でもなかった。

 7月に出かけたのは蓼科山。八ヶ岳連峰の北のはずれに端正な富士山型の姿を見せている山である。

 前日は女神湖のペンションを訪れた。ダイニングルームの一方にスタインウェイのフル・コンサートのピアノ、他方にベーゼンドルファーのグランドピアノがある。オーナー夫人はピアニストで、フランス料理の後はピアノの演奏というのがこのペンションの趣向だ。オーナーはアマチュアではあるがギタリストで、食後は音楽談義に花が咲いた。ちなみにこの脱サラのオーナー、蓼科でペンションを始める前は所沢の中新井にお住まいだったという。

 翌朝、最短コースの七合目駐車場から蓼科山に登った。折からの猛暑で、メンバーの一人が熱中症を疑わせる症状を訴えた。ゆっくりと時間をかけて登頂、風に吹かれて気分は回復したものの、連日の異常な暑さという状況下での登山はするべきではないと猛反省。

 8月は編笠山と権現岳に登った。南八ヶ岳の編笠山は托鉢僧がかぶる笠のように穏やかな頂を持つ山で、簡単に登れると思ったのは大誤算。それでも、疲れた足を引きずり、最後の急登をがんばったところでウメバチソウの群落を見ることが出来たのはラッキーだった。さらに、小屋へと下る道でヒカリゴケを見たのはもっとラッキーだった。一泊して体力も回復、翌日は岩場や鎖のある権現岳で山登りを満喫した。

 9月は麦草峠から八柱山へと歩いた。途中に雨池という、雨が降り続けば池が現れ、雨が降らなければお盆のような土地が広がる池がある。台風の後で池は水を満々とたたえ、水面に周囲の山を映して静寂そのものだった。日野春アルプ美術館で山の絵を描き続けている中村好至恵さんの個展を見て、山を二倍にも楽しんで帰った。
(M・O)



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 図書館サービス


 図書館の椿峰分館を自宅の書棚のように利用している。なんといっても歩いて3分という恵まれた立地である。暇つぶしの本であれば、書架をぐるりと回ってくるうちに、だいたい7〜8冊を抱え込んでいる。おかげ様でこれで2週間はたっぷりと楽しめるというものだ。

 館内の閲覧テーブルは、いつ出かけても新聞や雑誌を読む人で空席が無い。ほとんどが高齢者の男性であることは言うまでもない。散歩をかねた図書館通いは退職後の生活にルーチン化されているのだろう。

 私の場合は、資料などの借りられないものは図書館で調べることもあるが、事前に必要なものをインターネットで予約しておき、どっさりとかかえて帰って読むことが多い。なんせ、3分なのだから。

 過日、《ロッホ・ローモンド》という歌が原因で、スコットランドについて調べる羽目になった。旅行案内のようなお手軽なものから読み始め、最後にはかなり専門的な『国家と教会』という歴史と宗教に係わる本に及んだ。そのハードカバーの分厚い本を開いて驚いた。

 1頁目から、いや、目次からすでに、そしてどの章にいたっても、鉛筆で線が引かれていたのである。遠慮がちに薄く引かれているのではない。代名詞には元の語句を、さらに借りた人の私見の書き込みもある。

 わずらわしくて読み進めない。かなり努力をして要点だけは拾い読みをしたが、興ざめである。それでも、高校時代に年号を暗記した宗教戦争や名誉革命といった歴史的出来事が、何のことは無いお家騒動に過ぎないではないか、そのために庶民が巻き添えを食って、いやはやと、権力について再考したことは、まあ収穫だったといえようか。

 返す時に、貸した本の書き込みは消して書架に戻してほしいと館長に伝えたところ、返却本は多いのでチェック出来ないとすげない返事。

 来年から、市では指定管理者制度に則って、7箇所の図書館分館を業者委託(丸投げ?)することになった。そのほうがサービスも向上するし2千万円の予算削減ができる、という説明だった。
(M・O)



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古楽器


 埼玉県立近代美術館で催された「九条美術展」を見に行った。その日は窪島誠一郎さんのお話と、立川叔男さんの古楽器の演奏があった。

 窪島さんの美術館は村山槐多(むらやま・かいた)の絵との出会いに始まった。若い画家のまだ稚拙ともいえる絵になぜあれほど惹かれたのか、その絵は「ちょうど、平和展のレベルでしょう」と、目の上にかかる前髪を指先でちょっと押さえていたずらっぽく笑った氏に、会場から身に覚えのあるらしい笑いが応えた。

 ガランスという深紅色を特徴的に使った槐多の絵からは、22歳で「あと一日生かさせて下さい」と書き残した最後の詩に通じる祈りを感じ、それは戦争によって夭折した戦没画家の「無言館」につながる。

 開館以来本当に大変な思いで営業を続けていられるそうだが、その窪島さんに講演を依頼した九条美術の会も、実は講演料の出所もないと代表の岡部昭さんは挨拶で遠慮がちに告白していた。

 ところで、目をみはったのは古楽器の演奏である。耳を澄ませた、と言うべきところだが、その楽器の姿のなんと美しいことだろう。バロック・ギター、リュート、キタローネ、どれも今の楽器に比べるととても音量が小さい。シェイクスピアは劇中にこれらの楽器を用いて演出効果を狙ったそうだが、当時の決してお行儀は良くなかっただろう観衆の耳にどのように届いたのか。

 異色、と思われたのはハーディ・ガーディという楽器だ。ギターのネックを本体に乗せ、弦の横に鍵盤を設置し、右手には手回しのハンドルがある。想像できるだろうか。音はバグパイプのようでもあり、これが弦楽器かと摩訶不思議。10世紀頃の楽器で今でもハンガリー、ブルガリア、南仏などでは現役だ。その田舎風の響きはマリー・アントワネットに愛でられ、たぶん王妃は田舎娘風のコス・プレで踊ったのでしょうね、と演奏を終えた立川さんは微笑まれた。

 楽器の紹介には、「十字軍の遠征によって伝えられた古楽器だが、神の名の下とはいえ実は強権と侵略がもたらせたもの」と歴史的背景も言い添えられた。
(M・O)



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「戦争」の訓練


 英語と中国語を使って小さな貿易会社を持っていた男が引退した。外国語はめったに必要としなくなるから忘れてしまわないか、と聞いた。すると、集会所で“ご近所さん”を相手に英会話と中国語会話を教え、一石二鳥を心がけていると笑った。

 日本のように国境を接する外国を持たない国民には、外国語はやはり遠い存在だ。とにかく耳にする機会を作るのが良いと、NHKラジオの語学講座を薦められた。

 冷やかし気分で「英語5分間トレーニング」のテキストを買い、夕方の4時20分、第2放送の周波数を拾ってみた。初めてダイヤルを合わせたのだが英会話には少し間があって、気象の数値が淡々と読み上げられていた。最後に、実はその時には予期していなかったために理解できなかったのだが、「えっ」と思うようなことが聞こえた。

 その番組は「気象通報」で、当日の正午の風向、風力、天候、気圧、温度などを日本の各地と、北はロシアから西に韓国、台湾、中国、東南アジアに至る要所要所の状況、そして、船舶向けに海上の気象、漁業関係者向けに海域の気象などが伝えられていた。富士山山頂の気温で終わり、と思ったら、「えっ」はその後の海上保安庁からのお知らせだった。

 《北緯40度55分9秒、東経139度4分48秒の竜飛崎を中心とする半径10海里で、7月7日または9日、午前6時から午後5時の間に射撃訓練が行われます。同じく北緯34度16分11秒、東経130度31分51秒の九州響灘を中心とする半径5海里においても、7月7日または9日、午前6時から午後5時の間に射撃訓練を行います。》

 こんなことが毎日、日に数回も、通告されているとは知らなかった。つまり毎日、日本の海域のどこかで海上自衛隊による射撃訓練が行われているのだ。

 5日には、航空自衛隊のF15戦闘機が東シナ海で墜落した。他の3機とともに適役と見方役に分かれて対戦闘機訓練を行って いたという。

 憲法九条を持つ国の日常は、こうなのだ。
(M・O)



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「奪うというのか!」


 那須町に小さな家がある。普段は空き家だが、父と母が残した思い出の家だ。この春、出かけようと思ったところであの大地震だった。あれから3ヶ月が経った。被害の様子も知りたいし、庭は草に覆われて足を踏み入れる場所も探さなければならないのではないだろうか。

 毎日調べられている放射線量は、0.16マイクロシーベルト/時を上下したまま決して下がることは無いので、行き渋っていた。

 先日、出かけた病院で医師にお聞きした。
 「この環境に滞在することは、言われているように、すぐに身体に影響を及ぼすものではないと考えてよいのですか?」
 医師はこちらの無知さ加減に驚くというかがっかりしたというか、「だから僕は言ったのよ!」と、そこで一呼吸を置いた。「僕だけじゃなく科学者はみんな、政府は正しい数値を出せと言ってるの。あれは高い所で測っているでしょ。放射線量は地表が一番高い。そんな鳥が飛ぶようなところではなく人が暮らす高さで測らなくちゃ」
 「庁舎の3階だそうです。小学校の庭では50センチで0.51」
 「そうでしょ、だいたい3〜5倍と考えて、それを内部被爆するんですよ。5年から20年後、発ガンを覚悟して行くんですね」

 覚悟なんてできなかった。それでもまずは現状を知るために、3日と期限を切って重たい腰を上げた。那須町といっても白河市へは車で10分ほど、問題の原発からは直線でおよそ85キロだろう。あの日、白河市は震度6強だったが、家は何ごとも無かったかのようにあった。電話台と冷蔵庫が少しせり出して斜めを向き、電灯の笠がはずれて45度の角度でひっかかっていた。トイレの窓に置いた小さな一輪挿しが落ちて割れ、風呂場のタイルが少しはがれて落ちていた。

 気休めのマスクをして草を刈りながら、耳に入る鳥の声。ふと見上げた空は静かで高く、青々と茂る梢を風が渡り光を散らす。来るたびにひたるこの穏やかな気持ち。
ちょっと待てよ、こんなささやかな幸せも奪うというのか!
(M・O)



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ふるさと


 3月11日の地震と津波による信じられない災害に見舞われたころ、私たちの周りにはずいぶんと慈善的な気運があったのを思い出す。タイガーマスクのランドセル、ニュージーランドの地震被災者に捧げる黙祷、そこに対岸の火ではなく私たちの足元が揺らいだのだ。

 すぐに海外で稼いでいる有名人が祖国へ応援の手を差し伸べた。すると、国内の芸能人などが一様にパフォーマンスを起こした。テレビが飛びついて煽った。あなたのできることを! 温かい心を! 募金を!

 やがて原発の事故に至っては、どこか「一億総懺悔的」な匂いがしてきた。風評被害の農産物も、電気料金の値上がりも消費税率を上げるのも、被災者への国の賠償費用を捻出するためには受け入れます、と。

 安岡章太郎という作家がいる。
 彼はチェルノブイリ原発事故のときに、避難区域の我が家に隠れている二人の老婆が「わしらがいなくなったらあの牛たちに誰が餌をくれてやるんだい?」と言ったのは、放射能に対するまったくの無知であったと、当時の報道を思い出して書いている。
 しかしわれわれも決してそれを笑えない、われわれが知っているのは放射能が危険だということを恐れることだけだ、とも書いていた。

 そのチェルノブイリに、3日経ったら戻ってこられるからと着の身着のままで家を出て、いまだに帰ることはかないませんと切々と話したのは、事故当時まだ幼い少女だったナターシャ・グジーさんだ。
 市内の九条の会が集まって、彼女の澄んだ歌声を市民文化センター・ミューズに響かせた。
 3日・・・、だから写真の一枚も持っていません、と彼女が歌った「ふるさと」や「いい日旅立ち」は、それまで家族と平安に過ごした年月が、そのなんでもないようにみえる生活の積み重ねが、どれほど大切なものだったかを伝えて余りあった。

 これから、私たちは東日本大震災の被災地と長い年月をかけて向きあうことになるだろう。物資や思いやりのほかに、この国の憲法に則った「ふるさと」を再構築する大きな力を出し合いたいものだ。
(M・O)


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