コーヒーブレイク



もくじ

オーロラ(写真)

救いの手を!

急がぬ旅路

お賽銭

ご当地もの

夕焼け(写真)

からくり仕掛け言葉

でんでんむし

「浅見光彦」は追及した

骨折非観血的整復術

戦争を知らない子どもたち

オペラ「蝶々夫人」

郷に入っては

DONNA DONNA (ドナ・ドナ)

1 ヴァイオリンとの再会

2 PIETRO FLORIANI

3 アヴェ・マリア

  所沢は野菜供給地

  消えた山菜





オーロラ




 カナダ在住の長女からメールで届いた写真です。
 長女の承諾を得て掲載いたします。
 撮影場所はカナダ・エドモントン近郊、撮影日は現地時間3月11日午前1時過ぎ。
 当日は通常ではなかなか見られないようなオーロラの乱舞で、娘は「日本の大震災となにか関係があったのかしら」と思案顔でした。
(本間 中新井在住)


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救いの手を!


 言葉を失った。津波にさらわれたあの長閑だった町。ずっと安全といわれていた原発。目の当たりにした、半分信じていて半分信じていなかった大災害が、私たちを震撼させている。

 避難民は23万人と報道されていた。春を迎える前の寒さの厳しい季節、毛布一枚でどうして身を守れるだろう。一刻も早く暖をとり、栄養を補給し、必要なだけ眠らせてあげたいと祈るのだが・・・。

 国家総動員法のような非常事態の法律や体制を作ったものの、戦争を目標にしたそれらは、自然災害には役に立たないようだった。

 原発の安全神話は決して信じてはいなかったものの、白煙を上げる映像を見せられながら、担当官会見の奥歯に物の挟まったような説明にならない説明に、戦後生まれの私でさえ「大本営発表」を思い出したほどだ。国は国民を守らないと言いふるされた箴言は、21世紀になっても変わらなかった。

 とはいえ、現在あの原発で必死に回復作業に取り組んでいる何千人もの現場労働者に救いの手を伸べる方策を急がなければならない。日本中の、さらには世界中の人々の命を守るために、彼らは最悪の環境下で極度の緊張と疲労に打ちのめされそうになりながら仕事をしているのだ。持ち得る限りの科学の英知と確かな技術を結集し、事態の解決が図られることを強く求めたい。
(M・O)


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急がぬ旅路


 ブータンという王国をご存知だろうか。ヒマラヤ山脈の南麓に位置する、棚田の美しい景観で聞こえる農業国である。

 気楽な、とまあ、私には映る知人がいる。娘の保育園時代の父母仲間だ。彼はよくシルクロードを訪ねる。昨年、キルギスに行かないかと誘われ、八割方その気になっていたら暴動が起きてキャンセルとなった。その代わりにブータンに行かないかと言ってきた。

 彼は定年を間近にして伊豆に温泉つきの土地を求めて古民家を移築し、定年後はそこから相模原市にある職場、宇宙航空研究所(あの、“はやぶさ”の!)に週に3日通っている。どこにそんなお金が・・・。

 いや、話はブータンである。

 ブータンは2007年に王家の統治100周年を迎えた。06年からは第五代の現国王が在位しているが、08年には自ら国会を設立し、国民の選挙によって総理大臣を置くなど、立憲君主制・議会制民主主義の国である。実は、名君と誉れの高かった前国王が在位4年目(1976年)に、なんと彼は当時まだ21歳だったそうだが、「GNH(Gross National Happiness)」という国策を披露して世界的注目を集めた。国民総生産、国民総所得ではなく、国民総幸福量を求めるという。

 GNHは生活を推進する根本原理で、具体的な4つの柱は「持続可能で公平な社会経済開発」「ヒマラヤの自然環境の保護」「有形・無形文化財の保護と推進」、そしてなんと最後の柱は「よい統治」である。その根底には奪わない、嘘をつかない、自分だけの幸せよりみんなの幸せを考える、というチベット仏教があるそうだ。

 病院も医者もまだまだ少なく就学率も100%ではないが、医療や教育についてはその最低限を無料としている。これらの財源は観光客が支払う滞在中の「公定料金」によって賄われるそうだ。

 急ピッチで進められた国づくりが行き詰まった今、「最小不幸」を求めようという国策が、わびしくてならない。
(M・O)


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お賽銭


 この正月3日、中学3年生を担任する娘が、クラスの子どもたちの成功を祈願したいから地元の北野天神社に行くという。おせち料理とお酒の詰め込まれたおなかをこなすためにはいい散歩かもしれない、と付き合った。

 紅梅がちらほらと咲き始めていた境内に、参拝者がそれでも並んで順番を待つほどにはあった。大晦日から元日にかけてはかなり待たされるのを覚悟しなければならないらしい。由緒ある天神さまなのだ。

 見受けたところ、参拝者の誰もが必ず神様のご利益を信じてお参りをしている様子でもなく、いわばお正月恒例のエンターテイメントくらいに思っているのではないかという感じだ。

 娘の祈願も、これまでずっと神との交信もしていないのに、まさかお願いを聞き届けてくれると思っているわけでは無いのだろう。一応気が済む、という事に違いない。しかし、この気が済む、という事はすでにご利益といえるのかもしれない。

 ところが、無宗教の私ですらびっくりさせられたのがお賽銭の額である。たったの15円。せめて100円玉くらいはと考えていた私も唖然とした。娘は「十分にご利益がありますように」という語呂合わせだと、真面目な顔をして言う。いつの間にそんなルールが出来たのか。道真さんよ、お許しあれ。世の中はかくも厳しいのだ。

 帰りは境内にある奉納された力石とか誰々お手植えの梅、といっても何代目かのひこ生えだが、そして新しく建てられた石碑などを見ながら戻ってきた。

 その新しい石碑には、表面に大きく金額が刻まれている。金額も大きい。ふたつみっつそのような石碑があって、その先は参道の階段脇の玉垣に続く。いったい玉垣というのは、なぜ奉納者名ではなく金額を表に刻むものなのだろう。金額は信仰心の値ということか。神様はお金がお好きのようだ。娘よ、15円では心許ないことこの上ないよ。
(M・O)


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ご当地もの


 函館、竜飛崎、京都、博多などと、地名の入った歌謡曲がヒットしたことがあった。それは聞き手がいつか訪れた思い出とかさねてイメージを深めることによるのだろう。たしかに、映画が自分のたどった旅の足跡を追ってくれたりするのは言うまでも無いが、小説もまたそうで、『プラハの春』(春江一也著)では、数少ない私の海外旅行で訪れたプラハの町を、地図を片手にたどるおまけも楽しんだものだ。

 先日、気になることを確かめておきたいと閉館間際の図書館に駆け込んだ。調べ物はすぐに片がついたが、手ぶらで帰るのもと、一冊の本を抜き出して急いで目次に目を通した。なんと、私の実家のある地名が章のタイトルになっているではないか。 へぇー、水上勉がねぇ、千歳船橋を書いている。そういえば、窪島さんもすぐ近くにいたと『無言館ノオト』か何かの本に書いてあったっけ。

 『冬の光景』という水上勉のその小説は、21歳の結核に侵された青年が23歳になるまでに、2人の女性の間で3人の子どもを作り2人を失うのだが(一子は戦災で、もう一子は堕胎で)、その間の、今で言う“自分探し”と、ごく簡単に言えばそういう内容である。

 その最初に出会った女性が、小田急線の千歳船橋駅裏に、遠縁に当たる人の家の二階を借りて住んでいた。昭和21年秋の話である。

 昭和20年生まれの私は、21年にこの千歳船橋に引っ越して以来この町に実家がある。最初の駅の記憶は、5歳くらいのときに姉や母と一緒にホームで撮った写真に頼るばかりだが、「踏み切りを渡り終えると、そこは、片側町で、クリーニング屋、茶舗、歯医者がならんでいた」と書かれた町並みは、小学校に通っていた頃にも変わっていなかった。歯医者は、同級生のI君の家ではないだろうか。

 374頁、第九章からなる小説の、最後の章のタイトルが「千歳船橋駅裏」で、実はそのうちのほんの数行にしか周辺の様子は描かれていなかった。ふわりと浮かんだセピア色の思い出がこの本を読ませたのも、ご当地ものなればこそだ。
(M・O)


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夕 焼 け




 昨日はきれいな夕焼けでしたね。
 10分か20分の間、穏やかに変化していく空のドラマ・・・。
 大切にとっておきたいような、消えてしまうのがもったいないような時間でした。
 こちらの写真は先月、旅から戻る途中でサイド・ミラーの中に見つけた夕焼けです。あわてて車を止めて、カメラに収めました。
(ペンネーム/山姥 山口在住)


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からくり仕掛け言葉


 ニュースなどで国会議員の言葉が紹介される。始めのうちは「うん?」と思う程度で聞き流していたが、やがて実に誰もが、同じように自分の発言にその言葉を使うので「ええー?」と思うようになった。きわめつけは報道番組で、どの時間でも一日中、何回も繰り返す。

 こうして耳に慣らされた言葉の一つが「粛々として」だった。追及されたときに体よく居直る感じで使っていた。その意味を広辞苑で引くと1.つつしみ敬うさま。2.静かにひっそりしたさま。3.引き締まったさま。4.厳かなさま。…とあるが、そのどれも彼らからは感じ取ることができなかった。

 次に気になったのが「国民感情を傷つける」である。国民感情とはいったい何を言うのだろう。「感情」についてもう一度広辞苑を繰ってみると、2.に、主体の情況や対象に対する態度あるいは価値付け。心理現象のうちで、とくに主観的な側面、とあった。この主観的な思いを「国民共通」と言いくるめたいらしい。内心まで国民としてひと括りにされたくはない。スポーツの国際大会などでもテレビが国歌の演奏から中継するようになり、「国民応援団」の「感情」が大手を振って目の前を通るようになった。画面に大写しにされる応援団の興奮やその笑顔は、日の丸と一緒に「国民感情⇒愛国心」とすりかえられていく。

 旧い話だが、日本軍が真珠湾を攻撃したときに、ウィンストン・チャーチルが「一民族の全体が発狂することは、十分ありうることである」と言ったそうだ。その再現が「国民感情」の言葉に仕組まれているような気がする。

 そしてもう一つ「ギクシャクしている」という言葉。日米関係は沖縄の件で、日中関係は尖閣列島の件で、日露関係は北方四島の件で「ギクシャク」しているという。そうだろうか。外交のレベルで日本政府がおろおろしているだけ、と見えるのだか。 日本語は豊かだ。どこからか見つけだして敬い深く演じる政治家の、赤信号でもみんなで渡らせてしまう「からくり仕掛け言葉」に鈍感でいたくはない。
(M・O)


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でんでんむし


 北野で養蚕をつづけているKさんは、畑で集めたカタツムリの殻をペットボトルに入りきらないほどたくさん集めていた。隙を見せれば家の者に捨てられそうになるというその宝物に「ほら、こんなに集めたんだよ」と目を細めたが、孫たちもあまり関心を示さないと嘆いた。カタツムリは住宅街の紫陽花の葉の上にいるものと思っていた私には、畑でこんなに拾い集めたということが驚きだった。

 巻貝の一種で、肺を持ち、陸上で生息するカタツムリ。彼らはなまの植物、枯れ葉、菌類、藻類などを食べるが、殻を作るためにカルシウムを必要とする。そうか、畑には土つくりのために石灰(カルシウム)が撒かれているではないか。畑こそ彼らにとってすべての食材がそろっている絶好の生息地だ。

 フランスではエスカルゴといってこれを食用とするが、病原菌がつきやすいので衛生管理を十分にした専用のブドウ畑などで養殖している。ヨーロッパ系の人が多いアメリカでも養殖は盛んで、イタリア、スペインなどでも良く食べる。が、サザエを食べる私でも、いまだエスカルゴには手が出ない。

 ところで、秩父地方の民間信仰では、こどもの「耳だれ」に霊験あらたかな神様として「だいろ神」が祀られていたという。祠にはカタツムリの殻を奉納するそうだ。

 今年は国際生物多様性年で、第10回生物多様性条約締約国会議がこの10月に名古屋で開かれた。1992年にリオデジャネイロで開催された地球サミットで、地球変動枠組条約と並んでこの条約も提起されたが、エコ好きな日本人にも印象は薄いようだ。

 生態系の多様性、種の多様性、遺伝子の多様性の三つを生物多様性というらしい。学術的に難しい理論はさておいて、カレンダーをめくりながら私たちの日常を見れば、さまざまな視点でこの問題に行き着く。子どものころは紫陽花とともに6月の風物詩的だったでんでんむしを、梅雨時でさえ見なくなって久しい。
(M・O)


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「浅見光彦」は追及した


 病院のロビーの一角に書棚がある。待ち時間を覚悟して一冊を取り出した。旅情ミステリーのシリーズで有名な内田康夫の『氷雪の殺人』という作品だった。日本の最果て、利尻島の利尻山が舞台である。 

 被害者とはバックドア・ラブの関係だった若い女性と、白っぽいテニス帽をかぶった自称ルポ・ライターが現場で出会う、ほんのプロローグで名前が呼ばれて、すぐに診察は終わった。

 私は書棚に設置されている金庫に寸志を入れて本を譲り受け、帰宅してから一気に読んだ。

 著者が言うように、連載しているうちに現実の世界で次々と信じられない事件が起こった。日本を横断した北朝鮮のテポドン、防衛庁幹部による汚職、4年後に制定される有事法の動き、等々。勢い、筆は坊ちゃんの探偵ごっこを日本の国防問題にまで進め、利尻島に仮想敵国を睨む軍事施設を作ろうという防衛庁と、そこに持ち上がる権力を利用した贈収賄の裏側までを暴かざるを得なかった。

 ところで、去る8月31日、守屋武昌元防衛事務次官の判決が出された。これがまさに『氷雪の殺人』とかぶる事件だ。刑は懲役2年6ヶ月。追徴金が約1250万円だという。そして、防衛装備品の納入で特別の計らいをした内田洋行から、受け取っていないとした賄賂などの内容もが明らかになった。

 内田洋行というのは、製図機器とか文房具などを扱う商社かと思っていたが、航空自衛隊の次期輸送機(CX)エンジン代理店、新型護衛艦(19DD)のエンジン選定、長距離大型地対空ミサイル(ATACMS)の導入働きかけ、生物偵察機材、掃海・輸送ヘリコプター(MCH?101)エンジン選定、科学防護車の導入働きかけなど、ずっと守屋氏の権力的提案と係わって軍事利益をむさぼり続けていたようだ。

 笑ってしまいそうで決して笑って済ませてはいけないのが、守屋氏の奥さんのおねだり。長男の借金返済資金として、内田洋行元専務は奥さんに「キリのよいところで」と2万ドルを「差し上げた」という。

 そうそう、今検討中の辺野古のV字滑走路を提案したのも、守屋氏だとか。
(M・O)


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骨折非観血的整復術


 夏山を満喫する予定だった。御小屋山の尾根伝いに一気に阿弥陀岳に登り、赤岳で1泊。翌日はキレットを下って登って権現岳から編笠山へ。そう、いわゆる南八ヶ岳縦走という白地図を描いた。

 ところが、このコースには途中わずかに一箇所ながら手ごわいところがあるというネット上の不安情報を得て、急遽、コースを変更。1泊2日で権現岳と編笠山だけという、こぢんまりとした山行になった。しかもコースタイムは「帯に短し襷に長し」だから、前日は甲斐大泉のペンションに泊まる。青黒いほどの空にくっきりと描かれた夏山のイメージはパステルカラーの避暑地のお山に変ってしまった。

 さて、いよいよ朝もやの中を歩き始めた。乱れがちな呼吸も心臓の動きも足取りも、1時間、2時間と登るうちに整ってくる。かわいらしい花も楽しむ余裕ができた。

 樹林帯を抜けた前三ツ頭で、これからの本格的な登りの前に一休みすることにした。汗で濡れた背中に吹き上げる風がきつ過ぎるので腰掛ける場所を変えようと、左手にカメラ、右手にザックを持って一歩踏み出したところで石につまずいて倒れた。腹ばいになった鳩尾(みぞおち)にカメラの盛り上がったレンズ部分がはまっているような気がする。左手首が体の下敷きになってS字型に曲がっている。

 何が夏山だ。登り始めて2時間半で下山だ。しかも落ちていた木の枝を副え木にテーピングをして、首からタオルで吊った姿で。

 前泊したペンションのオーナーに連絡を取り、車で病院へ連れて行ってもらった。レントゲンを撮ると左手首の骨が一つ後ろ向きになっていた。関節の周辺に小さくいくつもの骨折箇所がある。若い医師は落ち着いて「今、この骨を戻します」という。「捻るンですか」「はい、引っ張ったり捻ったりします」

 局部麻酔を打って看護師さんが腕を抱えて踏ん張る。医師は左手で私の手をいやというほど引っ張り、右手で一番痛む場所を3、4回揉むようにしながら引っ張っていた手をぐーっと下側に捻った。「いてぇー」という言葉を飲み込んだところであっけなく終了。

 これが骨折非観血的整復術という手術であることを、診療明細書で知った。
(M・O)


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戦争を知らない子どもたち


 〜写真の日付は8月15日、皮肉にも終戦記念日〜

 これは、「ラブ・フリーズドライド」という歌詞の一節である。たぶん誰も聞いたことはないだろう。

 それなりに実力はあっても、電波に乗らないポップスグループは多い。甥はそんな世界で、やっとCDを数枚出 せるまでになってきた。その彼の書いた詞である。

 「この業界で、こういう言葉を使うライターはいなかったんだよ」

 メジャーデヴューの初ライブで、初めて出したCDにサインをしながら、彼は私にそう言って笑顔を見せた。

 横須賀の海が舞台である。石原慎太郎のやりきれない軽薄さのイメージが強い私などは、どのみち若者好みの湘南とひと括りにしていた。

 が、二人が楽しい夏の日を過ごした猿島には戦時中の要塞が残る。島に渡る桟橋は米軍施設を目の前にしている。つまらないことで仲違いをしたけれど、「私たちの終戦記念日」を待ち望んでいる、と歌う。

 うん、含蓄があるよ、それなりに。

 中学生の頃に私の家にあったギターを手にしてから、彼はこの世界を夢見ることになった。アルバイトをしながら、下北沢周辺の煙が充満する小さなライヴハウスで何年も経験を積み、そのガンガンの時代を通り越してたどり着いたのはブルースだ。

 私がサラリーマン時代に何回もの海外出張でマイルを稼いだ無料の航空券で、彼はニューオルリンズへ飛んだ。港町の喧騒、そこで働く人、屈託なく話しかけてくる笑顔。たぶん、刺激的に受け止めたのだろう。

 数年前、強力な台風で壊滅的打撃を受けたニューオルリンズのニュースに触れると、「クレイジー・コーナー」という曲を作りエールを送った。

 彼のまなざしは優しい。それは戦争を知らない子どもたちの平和ボケとは違うようだ。過酷なアルバイトで創作活動をささえ、実力はあっても電波に乗れない彼らに共通の、平和だからこそ追える夢を追いながら、現実を見ている真っ直ぐなまなざしといえるのかもしれない。

 贔屓に過ぎるだろうか。
(M・O)


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オペラ「蝶々夫人」


 CDでオペラを聴いた。ジャコモ・プッチ−ニの「蝶々夫人」。

 作曲家のプッチーニは1858年に生まれ1924年に没している。イタリア・オペラを代表するこの曲に〈越後獅子〉や〈宮さん、宮さん〉などのメロディーが上品に取り込まれているのをご存知だろうか。

 この時代に、いわばマニアックといえそうなこんなメロディーが、いったいどのようにしてイタリア人の耳に届いていたものか。

 有名なアリア「ある晴れた日に」は私でさえ口ずさんだりするが、解説書を片手に、騙され、捨てられた蝶々さんの「悲劇」の展開を追ったのは初めてだった。

 ロンドンでこの芝居を見たイタリア人が、アメリカ海軍士官と日本人妻を主人公とするオペラを書いたというややこしい物語。舞台は日本の長崎で、時代は20世紀初頭という。

 物語が始まるや否やアメリカ国歌のファンファーレが響き、かのアメリカ海軍士官をして「この国では契約は自分の思い通り」と、テノールですっかり上機嫌に歌い上げさせたものだ。

 なんだって、ちょっと待てよ。アメリカの思い通りだって? 

 あの鳩山さんが沖縄の米軍基地で行き詰まっていたときのこと。沖縄県民ははっきりと「反対」の意思を表明したし、沖縄の首長はその県民の意思を表明し続けていた。その間、アメリカ側からは何のコメントも出ていなかった。それは、日本の新政権がこの際何を言ったとしても、アメリカは頑として譲る気などなく、結局思い通りに収めるのだと、新米の首相を手のひらに載せて眺めているのではないかと思わせた。

 100年前となんの変わりもない。

 当時のヨーロッパでは「アメリカ言いなりの日本」が見えていたのだろうか。今日、新政権の及び腰を、ヨーロッパではどのように見ているのだろう。

 蝶々さんは結婚の時15歳、その3年後の自殺は18歳だ。騙されても仕方が無いと思いながら、鳩山さんは何歳なのだろうと考えた。

 21世紀もまたアメリカの思い通りが大手を振り続けて良いものか。
(M・O)


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郷に入っては


 農業応援という名目で知人宅を訪れた。

 場所は「日本の美しい村100選」に選ばれた長野県の小さな村で、長野市との合併を拒否して今日を迎えている。

 知人は東京でサラリーマン生活を30年以上も続けた後、コインを投げて新規就農を決めた。したがって、あまり農業には造詣が深くない。だから手伝う側もどちらかといえば気楽だ。

 昨年、おざなりに作った枝豆を初め、白いんげん、黒豆などが思いのほか好評だった。そこで、今年は耕作面積を広げたいから手伝ってと声がかかった。

 耕作地には雑草が一面に生えていた。その7割はスギナである。まずは手押しの耕運機で草の生えているまま耕してしまう。耕運機のエンジンがぐるぐると刃を回し、硬い土くれがもこもこと盛り上がる。刈られた草は上を下への大騒動だ。3往復を途中で断念した。なぜって、とてもやってられないから… うなった土の上に放り出された草や木、それに刈りきれなかったスギナを手で取り除いてゆく。これが私の役目だ。かがんだ姿勢のままで腰の痛いことといったら!

 日が暮れる頃、やっと畝に筋をつけて豆をまき、薄く土をかぶせた。

 その上から如雨露で水を撒いていたら、地元の人が軽トラを止めて下りてきて「水は、やらない」と言った。雨を待つということだった。そして「鳩が畝の筋をよく分かってついばんでしまうから、筋蒔きをしない」と言う。断ち切った直径5、6センチの木の枝を二歩ごとに土の上に立て、跡のついた円の中に豆を置き、置いたら二歩進む足で土をかけてゆく。あるいは、畑の数箇所に1面分の新聞紙を広げて周りに土を載せて押さえておく。すると「どうしてだか、本当に鳥は来ないだねぇ」と言う。鳥の目にはナスカの地上絵? 新聞紙にどのような魔力があるのだろう。

 筋蒔きをしたうえ雨の降らない1週間が過ぎた。なんと、豆の双葉があちこちで頭をもたげ始めたではないか。「おお?っ」である。
(M・O)


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DONNA DONNA (ドナ・ドナ)


 東北道を戻ってきた。前方で事故発生という表示を見てからどれくらい経ったろうか、ハザードランプが点滅して3車線を走っていた車が徐々に寄り集まって渋滞が始まった。
 渋滞は哲学の場である、と思うのは私だけだろうか。運転者の心理、環境問題、家族構成、流通、はては政治についてまでの興味深い観察と思考が出来る。

 隣に寄ってきたトラックに数頭の牛が乗っていた。そのうちの一頭と目があった。気のせいか悲しそうな瞳だ。おお、There's a calf with a mournful eye ではないか。そうか「口蹄疫」で牛たちは思わぬ運命にさらされているのだ。だから On a wagon 、今はトラックだが、bound for market だ。まさにドナ・ドナの世界だ。
 牛は成獣というには若く、でも今年の春仔よりは大きいようだ。幸いと言えるのか、九州で処分された牛の驚くほどの数を考えると、いくら高値で売れるといっても、すぐに「子牛のカツレツ」にされるのではないだろう。

 やがて1車線に車が流れて行きそれまでの無秩序が解消されると、燕のように翼を持たない牛を載せたトラックは、背後の扉に赤で書かれた日の丸と「北方領土全面返還」の文字、「牧泊」だったか「牧追」だったか、牧場の名称を見せて走り去った。
(M・O)


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 1 ヴァイオリンとの再会


 思いがけないところでヴァイオリンと再会した。
 毎年、嘱託職員のための研修会が2回ほど行われる。私の職場は公民館なので、通常は社会教育をテーマとするのだが、その日はビオラとヴァイオリンについての話だった。
 講師は某公民館の館長で、ちょうど戦後50年を迎える時期に近代から現代、特に15年戦争から憲法制定までに力点を置いた歴史講座を一緒に担当した相棒である。

 彼は小さいときから病気を持っていた。楽器に興味を持ったものの、病弱ゆえに、練習に欠席しても全体に影響の少ない楽器をという先生の配慮で、幼稚園の鼓笛隊から高校の吹奏楽部まで、ずっと本人の望む楽器を与えられずに過ごしてきたという。
 大学に入学して1年を病気のために留年。久しぶりに大学に出向いた日にオーケストラの団員募集という貼紙を見た。パートはヴァイオリンで初心者歓迎とあった。
 そこから彼のヴァイオリン人生が始まった。市役所に就職して所沢フィルハーモニーの楽団員としてずっとヴァイオリンを担当していたが、今はビオラを弾いている。

 「しばらくヴァイオリンのケースは開けもしなかったから、カビが生えちゃったんじゃないかと心配だったよ」と屈託なく笑う。
 「もし、ずっと弾く機会が無いのだったら、私、1ヶ月ほどお借りしたいなぁ」と遠慮がちにつぶやくと「ああ、いいよ」。 こうして46年ぶりに手にしたヴァイオリンだった。
(原 緑)


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 2 PIETRO FLORIANI


 実家のお向かいの家は、兄はピアノを教え、妹はアメリカのオーケストラでヴァイオリンを弾いているという音楽一家だった。
 ピアノのお弟子さんの弾くバイエル、チェルニー、ソナチネといった練習曲からバッハやべートーヴェン、ショパンやリストのヴィルトオーソのものまで、毎日耳にしていた。

 私も弾きたい! ある日、父にピアノが欲しいと言った。
 何日かして、一緒においでと言われて連れて行かれたところは新宿のコタニという楽器店だった。今は無いが、当時は伊勢丹の通りにあって楽器の老舗だったのではないだろうか。
 ところで、父はそこでヴァイオリンを買い求めたのだ。家計の状況を知る由も無い小学生の私には、なぜピアノがヴァイオリンに化けたのかは分からなかった。それでも、いつも取り合ってもらえない末っ子の要求に応えてもらえたのが嬉しくて、スキップをして帰ってきた。

 「これは《鈴木ストラディバリウス》という楽器だぞ。いい音が出るんだ」と、父は嬉しそうに弓を下ろした。何のことは無い、その楽器は私の物というよりは父の物であったようだ。
 学生時代にヴァイオリンを弾いたという父。独学で楽しんだのもつかの間、あの戦争だった。戦後の生活が少し落ち着いたときにわが子が楽器をねだった。父にとって音楽への思いが甦ったのだろう。

 私の手に収まりそこなってから46年。
 手にしたヴァイオリンはピエトロ・フロリアーニ、1864、という製作者のラベルが貼ってあった。
(原 緑)


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 3 アヴェ・マリア


 「もしかして、これ、お宝?」
 外国製で、古楽器に入ると言われたというその楽器を手に、借りるのはためらわれた。彼は「そーんなの」と言ってからはははは、と笑って「だーいたい偽物だよ、よくある話」。

 製作者ピエトロ・フロリアーニは19世紀イタリアの巨匠で、下倉バイオリン社のリストには840万円という価格がついている。
 恐る恐るケースを開け、飴色に光る楽器をしげしげと眺めた。
 ヴァイオリンという楽器はなんと均整の取れた、無駄の無い美しい姿をしているのだろう。
 名器といわれる楽器の音はともかく、芸術品として愛用される楽器は、渦巻状のネックや弦を巻くコマもF字孔と呼ぶ開口部も、機能的な中に贅を凝らしている。極秘とされてきた音の良し悪しを決めるニスがいまだに科学的解明ができないことや、共鳴箱の命といわれる魂柱の立ち具合を寸法で決められないことは置くとして、外形の美に関しては、今ではヨーロッパではなく中国が追いつき追い越そうという技を極めていると、松野迅さんが書いていた。

 バッハのアヴェ・マリアを弾いてみた。まっすぐに弓を引いているはずなのに、出てくる音はよれよれとしてかすれる。天下の名曲もまるで様にならない。これでは祈りはとても通じそうもない。
 その後、松野迅さんのコンサートでこの曲を聞いた。松野さんは目を閉じ、ゆっくりと上げ弓から入り、冒頭のモデラートの全音をたっぷりと歌わせた。
 静かに、会場いっぱいに、平和への祈りが響きわたった。
(原 緑)


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 2 所沢は野菜供給地


 昨年から所沢市中富の畑で野菜を作っている。はるかに奥多摩の山々に沈む夕日を望みながらの農作業は心身とも再生される思いだ。中富は下富、上富とともに「三富の開拓地」として知られている。元禄七年(1894年)時の川越城主柳沢吉保が馬の餌場となっていたこの地の開拓を計画し、1戸当たり5町歩(5ha)の短冊形の土地割をし道路から住居、畑、山林の順に配し2年後に241戸の村落を形成したといわれる。今でも市内で1番の農業生産地で中富小学校からは整然とした地割を見ることができる。

 その畑を1反歩(10a)貸すから耕作してくれといわれたのがキッカケで友人ら4人で3aほどを利用している。付近の専業農家は「ずいぶんいろんなものを植えているね」と呆れ顔である。彼らは10a20a単位で一面に今なら蕪、ニンジン、サトイモ、ごぼうなど1種類を作っているのだから1aに4種類も5種類も植えては子どものままごと染みているのだろう。それでも「商売でなく楽しみでやっているのはいいねぇ」とおばあちゃん。

 近郊農業の環境は厳しい。私の畑も後継者がなく、といって調整地域なので売ることもできず、放置も回りの農地に悪影響ということもあって、もってこられた話なのです。なにしろここ40年で所沢市の農家は45%も減り、農家人口は6割減少、そのうち60歳以上が3割強である。「サラリーマンは一人で家族を養うことができるが、農業は一家総働きでやっとだからねぇ」と両親と働いていた跡取り息子は言う。みかん箱大の通い箱一杯のほうれん草がきれいに束ねて出荷しても「500円になっかねぇ」

 専業農家に囲まれての道楽はいろいろと農家経営について耳に入ってくる。最近では出荷するまで冷蔵庫に保管せよということで大きな冷蔵倉庫を作らされたとか、残留農薬問題で使用禁止の農薬が増え苦労している、堆肥も工業的に作られ買わなければならない、関東ローム層のこの辺の冬は天地が赤くなるほど土嵐が猛威を振るう。新しい住宅が増えてきて「私たちも気を使うことが多い」など野菜が私たちの口に入るまでにはさまざまな問題を潜り抜けてくるのを垣間見ている。
(白戸由郎)


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 1 消えた山菜


 春スキーに行くと雪国の人たちの春への渇望を痛いほど感じる。「今年は春が遅い」と民宿のおばさんがいかにも残念そうに言いながら、仲間に電話して山の浅いところに山菜をとりに行く相談をしている。当日実に嬉しそうにおばさんたちが車で出かけて行った。彼女たちは山菜に象徴される春が嬉しいらしいのだ。

 雪の深い土地の山菜は旨い。所沢では10センチも伸びた蓬など食べられたものではないが、月山のふもと大井沢では「山菜ではモグサが一番だ」という。モグサとは餅草(ヨモギ)のことでそれも結構育ったものだ。

 私の母は、この所沢松井地区でも餅草やナズナ、芹などを春先に良く摘んできてほろ苦い春の香りを楽しんだものだ。その頃から40年ほどたった今では野草を摘んだところは家が立ち並び、芹を積んだ水路は生活廃水路となってしまった。40年前の所沢の人口は8万人強、今日約34万人、高層住宅が並ぶ街である。
(白戸由郎)


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